■はじめに
一九八六年二月、米国のサンフランシスコに住む私は早朝、行きつけの喫茶店で新聞を読んでいた。革命の嵐がフィリピンに吹き荒れ、マルコス独裁政権は崩壊の危機に瀕していた。サンフランシスコの新聞も連日のように、フィリピンの緊迫した情勢を国際面のトップで報道していた。
「へえー……ハイチのベビー・ドックもとうとう終わりか……」
デーブルの真向かいに座って新聞を読んでいた友人がそう言った。その時、「ハイチ」という国名が、なぜかとても心地よい響きで耳に飛び込んできた。
「ハイチのベビー・ドックって、誰?」
「知らなかった? ハイチの独裁者ジャン=クロード・デュヴァリエのあだ名さ。彼の父親も有名な独裁者だったんだ」
記事の具体的な内容は忘れたが、デュヴァリエ政権について書かれていたと記憶している。その当時、ハイチについて知っていたことは、「カリヴ海に浮かぶ島国」。そんな程度である。恥ずかしいが、どこにあるのかも分からなかった。だが、遠いカリブ海に浮かぶハイチでも、フィリピンと同様に革命が起きていることを知り、どんな国なのだろうかと興味を持った。
ハイチにぜひ行ってみたいと思ったのは八八年の夏である。本屋で偶然手にした雑誌のハイチ特集の写真を見て圧倒されてしまった――「人気のない路上に転がった死体」「葬儀で泣き叫ぶ少年」「スラム街に住む悲しい目をした親子」「デモ隊に襲いかかる兵隊」。写真の世界には、「澄み切った青い海」「ヤシの木のある美しい海岸」「陽気な人々」という、私が想像していた「楽園」のようなカリブ海のイメージとまったく違った現実があった。「楽園」と「地獄」――相反する二つの世界がハイチに共存していた。ニュースが終われば、次のニュースへ。まるで渡り鳥のような、報道カメラマンの生活である。でも、時間をかけて取り組める被写体はないだろうかと考えていた私にとって、ハイチこそが絶好の場であるように思えた。
八八年九月、私は初めてハイチを訪れた。到着した翌日、クーデターが勃発。当初、一〜ニか月の予定だった滞在が、気が付いてみれば四か月になっていた。以来、「ハイチ初の民主選挙」「アリスティド大統領誕生」「アリスティド失脚後の軍事政権」「米軍進攻」「ヴードゥー教」など、カメラマンとして余りある題材やニュースを取材して、ハイチを訪問すること十数回。あっというまに一〇年が過ぎてしまった。
被写体としてのハイチも魅力だが、私をさらにのめりこませたのはハイチの人々である。たくさんの友人ができた。彼らは一日一食さえおぼつかないスラム街に住む人々である。西半球最悪の経済と不安定な政治。私の多くの友人が貧困と暴力の犠牲となった。だが、どんなに生きることがつらくても、彼らが自ら「生」を放棄することはない。貧乏に耐え、暴力に脅え、必死に生き抜く姿に、「楽園」の人々にふさわしい「生」の輝きを見てきた。一四九二年十二月六日、ハイチのモルサンニコラ湾に到達したクリストファー・コロンブスは「なんど素晴らしい島だ!」と叫んだというが、五世紀を経た今でも、私がイメージし、コロンブスが感嘆した「楽園」は確かに存在する。
しかしハイチという「楽園」の住人が望んでいるのは、貧乏に耐えることもなく、暴力に脅えることもない自分たちの「楽園」である。旅行者や外国人のための「楽園」ではない。ハイチの歴史を振り返るならば、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が「自由と平等」を求めてフランス植民者に立ち向かった反乱も、デュヴァリエ独裁政権を崩壊させた抵抗運動も、近年の民主化運動も、自分たちの「楽園」を創造するための努力であった。この本に登場するのは、カメラマンの私がレンズを通して捉え、感じた「楽園」である。植民者コロンブスや旅行者が思い浮かべる観光パンフレットの「楽園」とは、ほど遠い姿であるかもしれない。
でも、この本が、ハイチの人々にとっての「楽園」を、少しでも伝えることができれば幸いと思う。
ハイチは「世界初の黒人共和国」として歴史上でも重要な国だが、音楽、絵画など文化的にも豊かな才能にあふれている国である。だが日本には、ハイチやカリブ諸国に関する文献は少ない。独立戦争や、誤解を招きそうなヴードゥー教のゾンビ(蘇生した死人)に関する著書が翻訳されているのみである。この本を通じて、読者がカリブの島国ハイチを身近に感じてもらえるならばと願っている。

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