■訳者あとがき

 本書は、〈Alain Finkielkraut : L'Humanite perdue, Seuil. 1996〉の全訳である。本来ならば本書は原題から『失われた人間』あるいは『失われた人間性』などと題されるべきであるが、日本語訳に対する著者の判断から、邦題は、本書の最後の一句〈Inutilite du XXe siecle?〉と関連づけることになったことはインタビューでも触れられているが、「二〇世紀は役に立たなかったのか?」と訳されたこの一句から、ここでは『二〇世紀は人類の役に立ったのか』という表題とし、「大量殺戮と人間性」という副題が編集者の意見のもとでつけ加えられた。

 本書では引用でしか触れられていないが、インタビュー中しばしば話題になった(未収録ではあるが)哲学者ヴラディミール・ジャンケレヴィッチは、「われわれがアウシュヴィッツを忘れることは、われわれがユダヤ人殲滅の総仕上げをするということだ」と述べている。一九九六年、本書の公刊と同じ年、アウシュヴィッツ強制収容所跡を訪れたフランス共和国大統領ジャック・シラクは、その演説でこの哲学者の言葉を引用しつつ、歴史の風化を危惧する人々への同調を示した。アウシュヴィッツが象徴する人類の負の遺産を積極的に次の世代に継承していこうという立場は、政治の世界から教育、ジャーナリズムの現場に至るまで、いわばフランスの国民的合意として機能しているというべきであろう。国際法にも組み込まれている「人道に反する罪」という時効なき罪状によって、ドイツ軍占領下のヴィシー政権の要職をつとめた高級官僚モーリス・パポンの戦争犯罪を問う裁判が開かれたり、ナチス・ドイツがユダヤ人から没収しスイスの金融機関に置き去りにしていった莫大な資産を戦後それらの金融機関が着服していたことが暴露され、スイス政府自体がフランスをはじめとする世界中のユダヤ人からの資産返還要求を無視できなくなってきたのもこの数年の出来事である。フランスにおいては、そしてヨーロッパにおいては、「戦後は終わった」などと無邪気なことは決して言えない現実が今もあることを確認しておく必要があろう。フランスでは公刊以来三年間で六万五〇〇〇部がすでに売れたと聞く本書が、この現実の上に成立していることは言うまでもないが、こうして考えると、忘却の美徳と健忘が支配し、「戦後」は大昔に終わり、世界と人間についての知と知識ですら、遺産どころか消費とエンターテイメントの対象にすぎなくなってしまったこの極東の地の果ての国にとっては、この本はいささか不具合な書物であるかもしれない。

 不名誉にして二〇世紀を形容する代表的な言葉のひとつになるであろう虐殺あるいは大量殺戮、この事実(第一次世界大戦、ナチズム、第二次世界大戦、スターリニズムなどの)を前に二〇世紀は役に立たなかったのかと自問しつつ、一六世紀のバリャドリッド論争から二〇世紀のアウシュヴィッツや旧ソ連強制収容所を貫く「人間」という概念の脆さと残酷さを論じる本書の内容については改めて触れる必要はないだろうが、著者アラン・フィンケルクロート氏は一九四九年パリ生まれで、エコール・ノルマル・シュペリユール(サン・クルー校)を大学教授資格を得て卒業し、長く理科系のエリート校エコール・ポリテクニックの哲学教授の職にあること、そして、フランス国営ラジオ、フランス・キュルチュールで「レプリック」という名の政治・文化全般にわたる討論番組をもっていることもインタビューで触れられているとおりである。

 氏の著作はすでに一〇冊を越えるが、そこには一貫した「政治参加」の知識人の姿があり、旧ユーゴスラビア問題、ユダヤ人問題、ナチスの強制収容所長であったクラウス・バルビー裁判、あるいは、フランスの非宗教が原則の公立学校におけるイスラム系の生徒のチャドール(スカーフ)着用問題などに重要な発言をしている。

 このインタビューでは触れられていないが、自分の思想的背景として、本書でもしばしば言及されているハンナ・アーレントやエマニュエル・レヴィナス、あるいはシャルル・ペギーのほかに、ナチズムとの関係が改めて問われ近頃評判の悪いマルチン・ハイデガーの仕事はやはり自分にとって重要であると氏は述べているし、今注目しているのはミラン・クンデラであるとも述べている。ちなみに、これもこのインタビューでは触れられていないが、アラン・フィンケルクロートをして、一九七〇年代末から八〇年代にかけて話題になったいわゆる「ヌーヴォー・フィロゾフ」の一員とみなす人々が日本にはいることを伝えると、彼自身は、その運動と自分は一切関係がないと言明したことを報告しておこう。

 一九九九年八月 川竹英克 


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