アウシュヴィッツ強制収容所の九八部署、化学部署と呼ばれ、その専門家からなる部門に配属されるにあたって、化学者であったプリモ・レーヴィは、パンヴィッツ博士の審査を受けるべくその前に立たされた。
「パンヴィッツは大柄で細身、金髪で、その目も髪も鼻もドイツ人たるべき要件に一致していた。彼は、手の込んだ作りの机の向こう側におぞましげに陣取っていた。そして私こと、拘留番号174517は、彼の執務室で起立を続けていた。部屋はまさに執務室らしく、汚れ一つなく清潔で整頓され、私が触れようものならことごとく不浄となるような様子だった」
「書き物を終えた彼は、私のほうに顔を上げ、まじまじと私を見つめた」
「その日以来、私はいくども様々な形でパンヴィッツ博士のことを考えてきた。あの男の内部では何が起こっているのか、化学的重合やゲルマン意識以外にあの男はどういう時間を過ごしているのかと私は自問してきた。そしてとりわけ、私が自由の身になったとき、改めてあの男に会ってみたいと思った。それは、復讐のためではなく、人間というものに対する私の好奇心のためだった」
「というのは、彼の視線は、ある人間がもう一人の人間に向けるそれではなかったからだ。そして、この視線の本質、ちょうどふたつの異る世界に属するふたつの存在に介在し、観賞魚用水槽のガラス越しに投げかけられたごときこの視線の本質を説明しきれるとすれば、私は同時にドイツ第三帝国の途方もない狂気の本質を説明したことにもなろう」
「われわれがドイツ人について思い、述べていたことすべてが、この瞬間に具現したのだ。あの青い目、あのこぎれいな手を統御していた脳ははっきりとこう言っていた。『私が今目の前にしているこの何者かは、間違いなく抹殺されるべき種に属する。しかし今のところ、何らかの有用な要素があればそれを秘匿させないようにするのが先決だ』」
パンヴィッツにとって、自分の机の前に立っているこの拘留者は、怯えた惨めな人間ではない。危険な人間でもなければ、劣った人間、卑しむべき人間でもない。矯正すべき人間でもなければ、隔離すべき人間でもなく、拷問にかけるべき人間でもなければ、罰すべき人間でもない。屠殺すべき人間ですらない。それは、人間ではないのだ。
イスラエルの罪を洗いざらい被せられた高利貸しがまだこう叫べた時代はすでに終わった。
「ユダヤ人には目がないとでもおっしゃるんですか? ユダヤ人には、体もなければ感覚も、欲望も、感情もないんですか? ユダヤ人もキリスト教徒と同じ物を食べ、同じ刀で傷つき、同じ病気に罹り、同じやり方で治り、同じ冬や夏に寒がったり暑がったりするじゃないですか? あなた方が私たちを刺しても、私たちは血を流さないとでもおっしゃるんですか? あなた方が私たちをくすぐっても、私たちは笑わないとでもおっしゃるんですか? あなた方が私たちに毒を盛っても、私たちは死なないとでもおっしゃるんですか?」
プリモ・レーヴィはパンヴィッツ博士の視線のなかに、かつてなら卑しむべきシャイロックと寛大なる人々をとにもかくにも結びつけていた運命共同体や種の連帯の、決定的な消滅を読みとっている。「拘留番号174517」という名の存在も、ふつうに涙を流し、血を流し、微笑み、苦しみ、化学の試験に合格したり落ちたりするはずなのに、目に見えない、水槽のガラス同様の隔壁が、それを人間であることから永遠に隔てている。排斥運動、中傷、嘲笑、迫害、大量殺戮は今に始まったことではない。しかし、何かに訴えることのこの全面的不可能さ、現実世界のシャイロックたちが発してきた長台詞、嘆願、嘆きのことごとくがこうして沈黙の世界へ帰されることこそ、ドイツ第三帝国の途方もない狂気なのだ。
その狂気は、それが正気とはいささかも別物ではなかっただけにいっそう気違いじみているし唖然とさせられる。 パンヴィッツは現実との関わりを失っていたわけではなかった。彼は理性の糸が切れていたわけではない。完璧に機能した彼の頭脳は、ゲルマン至上主義の科学が有害としていた存在に、有能で学識があり役に立つ存在を見て取ることになる。しかし、彼は、拘留番号174517に同類としての門戸を開くどころか、この審査によって、その対象化をいっそう徹底する。クズに、素材の性格が加わり、時には利用可能な手段という性格が加わる。抹殺に備える前に、その準備作業にそいつを使うのだ。効率化と処分。このふたつに同一の産業処理が施される。拘留者の生産性とそれ自身の有害性とは矛盾しない。拘留者には、自らの能力を利して人間に復帰したり命びろいをする可能性はいささかもなかろう。 拘留者を目の前にしたこの人間の知性は、実のところ、職務遂行の単なるおぞましい決定機関なのだ。彼の知性は、なぜという問いには無頓着で、体系的で純粋に実務的であり、「どのように」という問いに見事に答えていく。どのように役立たせるか? どのように死なせるか? どのように使うか? どのように片づけるか? 問答無用のこの機能主義を前にしては、有用性の議論さえももはやまったく役には立たない。要するに、パンヴィッツ博士の心の中では、道具と化した理性が道徳や一般常識に勝っていたのだ。そしてこの理性の勝利こそ、彼の狂気にほかならない。
人なつっこい動物の鈍重で騒々しい感情でしか、もはや認めてもらえない人間。この観念こそ、非道の歴史における二〇世紀の圧倒的な特徴なのだ。
ドイツで、イスラエル人捕虜を使った森林開発部署に拘留されていたエマニュエル・レヴィナスは、制服ゆえに、ナチスの荒れ狂う暴力からは守られていた。彼の生存条件とプリモ・レーヴィがアウシュヴィッツで耐えていたそれとのあいだにはいささかの共通点もなかった。しかし、レヴィナスもまた水槽の体験をした。
「われわれとすれ違い、われわれに仕事を与えたり命令したり、あるいは微笑みかけさえした、他の自由といわれた人々の視界や、目の前を通り過ぎ、時にはわれわれに目を向ける子供や女たちの視界には、人間の姿は映っていなかった……。迫害される側の気力と苦痛に加えて、内から湧き上がる惨めな囁きによってかろうじて、自分たちの本質が理性であることが思いおこされた。しかし、われわれはもはやこの世にはいなかった」
さて、ある日、一匹の野良犬が収容所に現れた。アメリカを夢みアメリカ人を夢想していた捕虜たちは、その犬をボビーと呼び、ボビーも、朝の集合時や作業帰りに嬉しそうなほえ声を上げて彼らに挨拶を送るようになった。
「ボビーにとってわれわれは人間だった――そこに議論の余地はなかった」
しかし、このはかない慰めも長くは続かなかった。数週間後、歩哨たちがこの邪魔な生き物を追い出し、〈ナチスドイツ下の最後のカント主義者〉は再び放浪の旅に就いた。
効率を追う動物によって忘れ去られ、「自分の衝動の意味を広く知らしめるに足る頭脳」を持たない、人なつっこい動物の鈍重で騒々しい感情でしか、もはや認めてもらえない人間。この観念こそ、非道の歴史における二〇世紀の圧倒的な特徴なのだ。
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訳 注
★1 Le dernier des Justes:1959年に発表されたアンドレ・シュヴァルツ=バールの同名の小説への言及。そこでは、ユダヤの伝説にある、世界を支え、世界を苦しみから守る36人の化身した「義人」の寓話が、作者自身のユダヤ人としての戦争体験に基づいて語られている。
★2 Emmanuel Levinas(1905-1995): フランスの哲学者。1964年になって彼についてのデリダの論文を契機に一般に知られるようになるまで、専門家たちを除いてあまり言及されることはなかった。タルムードと称されるユダヤ教の書と現象学や精神分析学の影響のもとで著された彼の著作は、自らユダヤ人として20世紀という状況のなかでのユダヤ人のアイデンティティーのありかたを問いつつも、現代における個人の非宗教的、非政治的アイデンティティーの可能性を探求している。フィンケルクロートの『愛の知恵』(磯本、中島訳、法政大学出版)はレヴィナスの哲学について書かれた重要な書物のひとつとなっている。
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