■インタビュー BR>

近代の闇が吹き出した二〇世紀

 本書の日本語版出版にあたって、著者と訳者とのやりとりの結果、日本語版への序文と訳者とのインタビューのふたつの選択肢から著者は後者を付録とすることを選び、一九九九年一月四日、パリのカフェ・フロールでインタビューの収録がおこなわれた。しかしながら、インタビューは結果として一時間以上にわたったため、本書の容量、性格から、訳者の責任において、本書の内容に直接関係する部分を中心に抜粋採録されることになった。以下はそのように読まれたい。(訳者)

●川竹――「二〇世紀は役に立たなかったのか」というこの本の最後の一節、日本語版の題をつけるに当たって、念頭に置いてほしいとフィンケルクロートさんが特に指摘されたこの一節から、私はある人の言葉を連想しました。つまり、近代という文脈では二〇世紀は存在しないという。せいぜい、一七世紀あたりが「近代」のいわば創業者、一代目であるとすれば、一九世紀はその二代目、そして二〇世紀はその二代目のままだという……。●フィンケルクロート――仮にそうした区分のしかたが可能だとしても、また仮に、一七世紀に近代が決定的になり近代のパラダイムが決定されたのだとしても、二〇世紀が第一次世界大戦によって特徴づけられているかぎりにおいて、二〇世紀は独自に存在すると思います。第一次世界大戦はヨーロッパを、そしてたぶん世界全体を変貌させ、二〇世紀を形成する決定的な出来事を生み出しました。第一次世界大戦は、ちょうどフランス大革命が一九世紀の根底にあるように、二〇世紀の根底をなしていると思います。

●川竹――近代の試練という意味でですか?

フィンケルクロート――ええ、それと同時に、近代の逸脱でもあるわけです。

●川竹――近代の楽観主義の逆説、進歩やら博愛やらを人類に約束したかに見えた明るい近代の横滑り……。

●フィンケルクロート――そう、近代の闇の部分が明らかにされ、決定的な断絶がそこに現れた。一九世紀的近代の熱狂、歴史は人間の解放へと向かい人類は自分の運命を自ら支配できるという楽観主義がそこで終息するわけです。

●川竹――『失われた人間性――二〇世紀についての試論――』という原題を持つ本書は日本語による三冊目の翻訳ですね。『思考の敗北あるいは文化のパラドクス』(西谷修訳、河出書房新社、一九八八年)、『愛の知恵』(磯本輝子・中島公子訳、法政大学出版、一九九五年)に続く翻訳になりますが、近代の不条理、「歴史」の終焉と聞くと「ポストモダン」という言葉をつい口にしたくなる誘惑が日本にもあります。「ポストモダン」という言葉は確かに結論を急ぐ人々には便利な言葉だと思いますが、フィンケルクロートさんはこの言葉をお認めになりますか。

●フィンケルクロート――むずかしい問題ですね。わたしが歴史哲学を否定し、今言った楽観的で快適な近代というイメージに反対する意味では無条件でこの語を弾劾するつもりはありません。でも他方、自分がいわゆる「ポストモダン」の流れに立っているとは思いません。というのは、この流れは、いわば万事を引用で示すことで始まり、進歩の観念を「万国博覧会」の発想で置き換えるわけです。「万博」によって「歴史」は万人の意のままになる。別の言い方をすると、「ポストモダン」は「技術」と緊密な関係にあると思います。ここで「技術」というのはハイデガー的な意味、つまり、ある形で世界を人前にさらすものとしての技術です。ハイデガー的な意味での技術の世界にあっては、物事は万人の意のままになるものとしてあります。現実を意のままに扱うという意味では、「ポストモダン」は「技術」の絶頂以外の何物でもありません。

 実のところ、「ポストモダン」は近代の熱狂を極限まで推し進めるものだと思います。「ポストモダン」は要するに人間を「観光客」に変えてしまうからです。「ポストモダン」というもののなかには現代人の究極の姿のひとつがある。そこでわたしが心配するのは、二〇世紀の記憶がもっぱらこの「観光客」を正当化するため使われるのではないかということです。つまり、今や近代はわたしたちを「観光客」に変貌させつつあり、この「観光客」の未来に対して、土地や民族といったものへの帰属という観念が過去のものとして対立させられ、この帰属の観念に依存するものは何であれ悪であると決めつける図式が捏造されてしまうのではないかということです。確かに、実際のところ「二〇世紀」はなかったのかもしれない。結局いかなるものも、われわれを「観光客」にしてしまう近代のプロセスを止めることはできなかったという意味ではね――。このプロセスは二〇世紀の残虐行為によって転覆させられたと考える余地もあったかもしれませんが、現実には、このプロセスは残虐行為によって止まるどころか、ある意味では逆に、この残虐行為を利用しているんです。

●川竹――今はやりのインターネットなどは、この本のなかでフィンケルクロートさんも述べられているように、ポストモダンな「観光客」を生み出している代表格でしょうが、こうしたプロセスが残虐行為を利用しているというのはどういうことですか。

●フィンケルクロート――ちょうど格好の例がひとつあります。この本が出版された一九九六年以降の状況を語るうえでもちょうど良い例だと思います。コマーシャルフィルムがその例です。あなたもお気づきだと思いますが、最近のヨーロッパのコマーシャルフィルムの大部分は直接間接にいわゆる「情報化社会」を顕揚しその利点を高らかに唱うものになっています。これは日本でも同じことだと想像しますが、国際化した市場によって制度化されたインターネットは、まるで地球上のあらゆる人間にとって緊急に必要なものであるかのような印象を与えています。パソコンは誰もが今すぐにでも手に入れなければならないものになったかのような心理的環境をその周りに巡らしています。もちろん、実務者や研究者のような人々には不可欠でしょうが、仕事で疲れきって帰ってくる人々にとってそれが不可欠である根拠はありません。万人に漏れなくこうした欲望を植え付けようというのは途方もない事業、挑戦です。

 こうした挑戦に同調するコマーシャルフィルムのひとつにこういうのがあります。それは、時代を三〇世紀あたりに設定したいかにもお金のかかった舞台装置を使ったもので、筋立ては、ヘルメットをかぶってワンピースの制服を着たSF仕立ての警察官たちがパソコン端末を備えている家々に次々と踏み込んでその端末を窓から放り出していく、そして最後のシークエンスで、そうした端末が巨大なスタジアムに集められている情景が写しだされこうコメントされる。「昔、書物がそうであったように、今日、パソコンを破壊しようとする人々が恐らくいるでしょう。なぜなら、今やインターネットこそが自由と文化の場だからです」というものです。

●川竹――映像的には例のフランソワ・トリュフォーの映画『華氏四五一』を想起させる話ですね。ただ、映画『華氏四五一』のように書物こそが自由と文化の場であるという命題であればまだ納得はいきますが、インターネットこそが自由と文化の場だという命題を信じるにはまだ早すぎるような気もしますね。もちろん、国内で制限され禁じられている情報に個人がインターネットを使って国境を越えてアクセスできることを喜ばない国家権力が現実に存在することは容易に想像できますが、むしろこのコマーシャルフィルムがやっているのは、インターネットこそが自由と文化の場だという命題を万人に信じさせるためにファシズム的国家権力の蛮行を利用しているわけですね。となると、それを利用している側も新手のファシズムですね。

●フィンケルクロート――まさにそこが問題なんです。ここには現代の虚偽の最たるものがある。二〇世紀の空しさがそこに見える。なぜなら、仮に今日、書物の脅威となっているものがあるとすれば、それがインターネットに他ならないからです。仮にインターネットがこのコマーシャルフィルムのように定義されるものであるならば、それこそファシズム的脅威なのです。このコマーシャルでの「脅威」、つまり危機意識を煽るものとして捏造された脅威は、犠牲者のごとく振る舞いつつ自らの支配権を確立し、結果としてその見せかけの敵、いわばファシズムの再来を正当化していく。「観光客」でいなさい。なぜなら「観光」と「蛮行」の二者択一しかないのだからというわけです。だから二〇世紀の不幸は、今や二者択一を容赦なく迫る近代に波長を合わせ、利用していくほかないということでしょう。

●川竹――この本のなかでフィンケルクロートさんは、レーニン主義者が用いた言い方として「オムレツ」の比喩を引用なさっています。「卵を割らなければオムレツは作れない」という。強制収容所からカンボジアや天安門にいたるまで、一面で全体主義のプロセスを要約する言い方だと思いますが、こうして「観光客」化した現代でも機能しているとお考えですか。

●フィンケルクロート――二〇世紀はその意味では「オムレツ」が壊れるのに立ち会ってきました。ハンナ・アーレントが四〇年代に書いた論文に、『卵たち大いに語る(Eggs Speak Up)』というものがありますが、そこで彼女は、二〇世紀の全体主義がもたらした残酷と破壊を目の前にした「卵たち」の反乱を語っています。「個人」というものは「人類」が作り上げられる過程で必要とされる対象にすぎないという観念に対する個人の側からの反抗であり、この観念は二〇世紀の全体主義がもたらした残酷と破壊によって信頼性を失うことになりました。人道主義的感性の広がりはまさに「オムレツ」的観念に対する回答なのです。

 人道主義的活動は、革命主義者のシニカルな理想主義に対する反発から生まれたわけです。革命が掲げた理想は、人類への愛の名の下に置かれたわけですが、とりわけ個人としての人間たちの運命がどうなるかということへの関心をすっかり失い、その倒錯的な面を次第に推し進めていきました。その結果、革命の本来の性格が裏返ってしまったんです。ここで問えることは、この人道主義的反発に留まっているだけでいいのかということです。たしかに人道主義的活動は高貴で必要なものですが、もう一面では、人道主義的活動の前では個体としての人間は互換性のあるものとして存在するにすぎません。こうした個体としての人間は、輪郭も文脈も持たない「人類」という抽象の生物学的な単一の苦痛を代理しているにすぎないのです。その根底において人道主義的活動にも人間の多様性の観念が欠如しているのです。革命主義的活動は人間の多様性を単一の運動に還元してきました。人道主義的活動はこの見方からは解放されましたが人間の多様性は見ていません。なぜなら、人道主義的活動が援助の手を差しのべようとしている個体としての人間たちは、やはり人類という種の標本にすぎないからです。だから必要なのは、実は二〇世紀は何であったのかを考え、人間の多様性と思想、感性そして政治の折り合いを改めて付けることです。

●川竹――この本はまさにこうした面で二〇世紀を考えているわけですが、たとえば知識人が今日でも果たしうる役割とは何でしょうか。たまたま昨年(一九九八年)はゾラの『われ弾劾する』一〇〇年目ということで、フランスでは様々なメディアにおいて、知識人と政治あるいは社会の関わりについて改めて問い直されました。あるいは、フィンケルクロートさんご自身、ポリテクニックの哲学教授という枠を越えて、現代フランスのもっとも活動的な知識人のひとりとして発言し続けていらっしゃいますし、文化専門の国営ラジオ〈フランス・キュルチュール〉では、毎週土曜日の午前、「レプリック」という鼎談形式の討論番組を主催なさっています。フランスには、マスメディアと関わるいわゆる知識人に対して相変わらず根強い不信感がありますが、フィンケルクロートさんは、マスメディアを敵視するというよりむしろ同調的に振る舞っていらっしゃるようにも見えます。知識人と現代のマスメディアという観点でいうとどうなんでしょう。

●フィンケルクロート――これは答えに注意を要する問題です。確かに、知識人の中にはマスメディアを攻撃してこう言う人たちがいます。マスメディアは将来にわたって知的な面で抜き差しならない順応主義、いわゆる「単一思考」を押しつけると。だからそうなれば、『われ弾劾する』のようなことはもはや不可能になるだろうという言うわけです。でも実際には、こうして闘っている知識人たちが確信しているのは、世界はふたつの勢力の対立に還元されるものだということ、つまり、資本に奉仕する勢力と虐げられた人々を助けようとする勢力に帰するという確信です。そして、自分たちの敵はことごとく資本に奉仕する者たちであり、自分たちと同じ考え方をしない者たち、たとえばテレビにでるような者たちは要するに支配階級に奉仕しているというわけです。

 でも私が思うに、現代が要請しているのは、そして二〇世紀の記憶が求めているのは、ラジカルな二項対立的な図式から脱却するということです。それは言うまでもなく、人間の多様性を認め、問題の複雑さを認める必要があるからです。確かにマスメディアというものは単純さを好むものです。なぜなら、そこには十分な時間も十分な空間もないからです。ジャーナリストがどんなに良心的で善意に満ちていたとしても彼には別の拘束がかかっているのです。それが時間と空間の制約です。テレビだけでなく新聞などでも迅速さ簡潔さが基本であることは同じことです。マスメディアというものは単純化するものであり、それゆえ二項対立を好むのです。今日のメディアのきわめて象徴的な逆説は、メディアに対する攻撃のラジカルさがメディアで成功を収めていることです。二項対立という図式の論議であればマスメディアでは受けるんです。それは、こうした議論が単純でメディアの潜在的なカテゴリーにうまくはまるからです。その意味ではメディアを介した歴史的なテクストと目されるゾラの『われ弾劾する』の成功は例外的です。ゾラは『われ弾劾する』で共和制の危機を訴えているいるわけで、是か非かのメディア的政治批判のモデルを提示しようとしたわけではいささかもありません。

 今おっしゃったように、一九九八年は『われ弾劾する』がいろいろと話題になりましたが、それを見ていると、このテクストをして政治的言説のパラダイムに仕立て上げようとする動きがあります。ひとつは左派の急進的な知識人で、もうひとつはマスメディアなんです。これはとても面白い現象です。この両者は、対立しつつも実はひとつに収斂するのです。ですから、メディアと知識人の関係を考える場合、十分に慎重に行わなければ同じ矛盾に陥ってしまう危険があります。

●川竹――フィンケルクロートさんはこの本で、第一次世界大戦、ナチズム、共産主義体制、ユーゴスラビアの民族紛争などの歴史的事件を例に二〇世紀を検証なさっていますが、最後に、日本の読者のために、同じように二〇世紀の大事件である広島・長崎の原爆投下はこの本の文脈においてはいかなる意味を持つのか伺っておきたいと思います。

●フィンケルクロート――ヨーロッパにおいては、広島・長崎の原爆投下の意味についての哲学的な議論はやはりあまりなされてこなかったことを認めざるをえません。この問題を最初に扱った哲学者はドイツのギュンター・アンダースだと思います。彼はハンナ・アーレントの最初の夫だった人で二〇世紀ドイツの重要な哲学者だと思いますが、彼は『時代おくれの人間(Die Antiquiertheit des Menschen)』(上・下、青木隆嘉訳、法政大学出版局、一九九四)という本を著しています。

 これは技術の時代としての近代を考察するものですが、そこで彼は、人間が技術の主でなくなり技術が物事の主となる時「人間の旧式化」ということが起こると言っています。そして、この人間から技術への権力委譲の例としてアウシュヴィッツと広島・長崎の原爆投下を指摘しています。この意味でアウシュヴィッツと広島・長崎の原爆投下を関連付けた最初の思想家です。彼の言によれば、現代のわれわれは、奇妙にも、逆転したユートピア主義者ということになります。

 ジュール・ヴェルヌを思い出せばわかりますが、古典的なユートピア主義者は自分らのできないことを空想した、つまり、未だ存在しない現実の前でとどまり、空想を代償としてそれを自らに禁じるという才覚があったわけです。それに対し、二〇世紀の逆転したユートピア主義者は自分らが何を為しうるのか想像がつかない。原爆を発明した人々、原爆を投下した人々にはその結果がどうなるのか想像がつかなかった。もちろんそれは戦略的なものでしたが、その規模は想像を絶するものだった。だから、われわれは、自分の想像もつかないことをしでかしてしまうという奇妙な状況にいるわけです。

 ギュンター・アンダースの言っていることは当っていると思います。彼の洞察は意義深いと思います。ただ、私が本書で広島・長崎の原爆投下について直接触れなかったのは、やはりそれを全体として語るには困難な点がいくつかあると思うからです。もちろんそこにある残酷に、ヘーゲルが言う「反の作用」としての悪の弁証法、人類の進歩のために個体としての人間を物質性に還元するプロセスを見ることができます。二〇世紀の他の残酷な出来事と同様、これを前にして、われわれは形而上学に対する反感を感じるはずです。アドルノは、形而上学は偶発的な存在を永遠者に従属させるものだと言っていますが、この形而上学の図式が「歴史」という観念によって人間の世界に移し変えられ、そこで偶発的な存在は、もはや精神的存在にではなく、前進する歴史に従属させられたわけです。このような形而上学的論理はもはや不可能です。

 わたしたちは、何としてでも直接所与を復権させ、偶発的なるものの権利を回復しなければなりません。これこそ、二〇世紀の哲学上の至上命令です。第一次世界大戦、アウシュヴィッツ、そして広島・長崎の原爆投下はことごとく今述べた形而上学的論理から生じたものと考えられるからです。でももう一方で、広島・長崎の原爆投下のような出来事はこのことだけに還元できないというのも事実です。そこには、戦争をどんな手段を弄してでも終わらせねばならなかったという状況がありましたし、広島・長崎の原爆投下によって被害者となった日本人にしてみれば、戦争中日本軍が中国でおこなった残虐行為について長い間考えなくて済むという状況も生まれました。

 そしてなによりも、これは歴史の逆説でしょうが、原爆が示したけた外れの破壊力ゆえに、それ自体が戦争抑止力となったということがあります。ですから、不幸にして、この悪から善の効用が生み出されたということです。ここでも弁証法が連動したということです。不幸にしてです。ですから、広島・長崎の原爆投下を考える場合、こうした弁証法の誘惑に抗して悪を真正面から見据えることが必要ですし、逆に言えば、この出来事は残虐さだけに還元することができない面がつきまとうということです。

●川竹――アンダースの議論を最後まで推し進めて広島・長崎を理解することは難しいにしても、今日一般化した言い方を使えば「記憶する権利」において、広島・長崎の原爆投下はアウシュヴィッツと同様に今後も存在し続けるし、し続けなければならないことは変わりがない……。

●フィンケルクロート――そのとおりです。

●川竹――では、最後の最後に、フィンケルクロートさんのこれからの著作のご予定があれば教えてください。

●フィンケルクロート――今の「記憶する権利」にも関連する内容ですが、もうじき『恩知らず(L棚ngratitude)』というタイトルの本がでる予定です。現代においてわれわれに残されたものを継承する術、遺産と継承についての議論をしています。


戻る