1999年8月、私は北海道・函館で田中ミサさん(88歳)と会った。彼女は昨年10月、73年ぶりに永住帰国した。彼女の傍らには、いっしょに帰国し、隣の住居に住んでミサさんを助けている老川正子さん(68歳)がいた。その二人を見守るのは、函館在住の旧樺太島民だ。ミサさんは北海道で「木漏れ日の野」を見つけつつあるようだ。
だが、時折、ミサさんと老川さんは呟く――「サハリンにいる子どもや孫らは、ちゃんと食べているだろうか。病気にかかっていないだろうか」。
心配はもっともだ。昨年8月中旬、ロシアで突然ルーブルが切り下げられ、市民の生活は、ますます逼迫(ひっぱく)していると聞く。
おかしくなったのはロシアばかりではない。ルーブル切り下げの1か月ほど前、私はユジノサハリンスク市のレーニン通りにある美術館、かつての「北海道拓殖銀行豊原支店」の石造りの建物の前に立っていた。かつて、樺太の経済を支えたこの銀行は、前年、つまり1997年11月、経営破綻から解体していた。日本中でバブルがはじけていた。
旧銀行の前で私は思った。この私もバブルだったと。私は終戦のわずか3年後に生まれ、日本の急速な経済的発展に乗っかり、共に年を重ねてきた。ぬくぬくと、ふわふわと生きてきた。戦争も、父が戦争に行ったことも、私には遠い遠い昔話だった。
そんな私が、ふわふわと海峡を越え、サハリン島に渡った。その島では奇妙な時間(とき)が流れていた。過去が消え去らず、現在とねじれ合って流れていた。おまけに、その過去も現在も、私の国の過去と深く繋がっているらしかった。知らなかった憂うつな過去とぶつかった私は、不安になり、不快になり、逃げ出したくなった。
だが、島で暮らす人々との出会いが、私をもう一度、さらに、もう一度と海峡を渡らせた。1週間の予定の旅は、気がつくと6年にわたっていた。
サハリンに渡るたび、私は無意識に感じていた自分というバブルの空洞が少しずつ埋まっていくのを感じた。サハリンへの旅の出発地というだけでよそよそしく感じられた北海道は、なつかしい大地に変わっていった。2つの島を隔てる海峡は、2つの島を結ぶ海峡になった。
サハリンから帰るたび、私は奇妙な時間(とき)が流れているのは、海峡のこちら側、日本の国だと感じる。この国に流れている時間(とき)は、決して消えていない過去を忘れ、おかしな方向に流されているのではないか。1999年の夏は、新ガイドライン関連法や通信傍受法、国旗・国歌法などが次々と成立していった。この国は、未来に進んでいるつもりで、過去の暗い時間(とき)に戻っているのではないか。
こんな奇妙な時間(とき)の流れに身を任せていると、私の心の中の空洞が再び広がっていく。過去を見つめないで、どうして現在に自信が持てよう。ましてや、未来が描けない。
だが、過去は消えない。時には思いがけない形で現れる。この8月に大地震が起きたばかりのトルコから、建築家や技術者が東京にきた。何でも、ロシア革命を逃れてきたタタール人が1937年に建てたモスクが老朽化し、15年ほど前に取り壊された。そのモスクを再建するらしい。
田中ミサさんは「うちのタタールの夫の一族は、樺太から船に乗って東京のイスラムの学校や寺に行ったもんだよ」と言っていた。その寺こそ、このモスクなのだろう。2000年の夏には完成するというから、ミサさんに見せたいものだ。ミサさんは、様々な民族が寄り添って暮らしていた島の木漏れ日の野を思い出すのではないだろうか。
島を見せ、島と共に生きる自身を語ってくださったサハリンの方々、樺太のことをたくさん教えてくださった旧樺太島民の方々、宗谷海峡の上で元気を与えてくださった北海道の方々、ありがとうございました。みな様の言葉とまなざしを噛み締めながら綴りました。みな様の大切な過去と現在を、未来に刻みたいと願いながら書きました。
(後略)
1999年10月 田中水絵
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