■序にかえて


甘志遠自伝と日中戦争裏面史
 甘志遠とはいったい何者なのか。一言で説明するのはむずかしい。彼にはさまざまな顔がある。時期を追って並べてみると、次のようになる。
@早稲田大学留学生
A地方政府の電機技師
B国民党軍の通信教官
C香港の海上運輸業者
D日本軍の中国人海上部隊司令官
E反共ゲリラ部隊の司令官
 甘志遠(本名甘霖)は辛亥革命の前年、一九一〇年に生まれ、中学のとき内戦を経験した。その数年後には日本軍が中国侵略を加速させていく。そのなかを、技術者、軍人、密輸業者、各種部隊の司令官として生きた。
 最後の反共ゲリラ部隊とは、第二次世界大戦終了後に発生した、中国共産党と中国国民党の内戦期のものである。国民党がこの内戦に敗れ、甘志遠がゲリラ部隊を解散したとき、彼はおそらくまだ、四〇歳になったばかりだった。いわば戦争に始まり戦争に終わった前半生を、甘志遠は一気に駆けぬけた。本書はその四〇年間の記録である。
 物語の背景はおのずと〈戦争〉ということになる。ただし、どれほど華々しく戦ったか、といったたぐいの自慢話ではない。むしろ逆に、妙に力の抜けるエピソードが繰り返し現れてくる。
 まず、辛亥革命のとき、甘志遠の生まれ故郷である南京の町に、革命軍が総攻撃をかけた。町を荒らされることを恐れた住民たちは、革命軍と清朝の守備隊の両方に、相談を持ちかけた。そして結局、清朝の守備隊は住民から金を握らされて、おとなしく撤退していった、という。歴史的な事実がどうであったかは、ここでは問題ではない。すくなくとも甘志遠はこのように伝え聞き、そう理解しているのである。
 次は満州事変の翌年、一九三二年のこと。日本軍が上海に進攻すると、迎え撃つ第十九路軍が果敢に応戦し、中国国内で抗日の英雄とたたえられた。しかしその直後、福建省に追いやられて、蒋介石と対立するようになる。そのとき第十九路軍は、あろうことか日本陸軍からひそかに武器弾薬を調達し、その支払いには、上海の戦闘の際に全国から寄せられた支援金が使われた。
 一九三七年。日中戦争が本格化すると同時に、日本海軍は中国の沿岸を封鎖した。これに対して中国側はさまざまなルートを開拓して物資の確保に努めるが、当時、国民党軍の大佐になっていた甘志遠も、軍需品を買い付けるため、同僚といっしょに多額の現金を携えて仏領インドシナや香港に渡った。
 ところが同僚はその資金で株や金を売買してしこたま儲け、さらに直属の上司は、香港で仕入れた日用品を、政府のトラックを使って、中国内陸部の自分の百貨店にせっせと運んでいた。
 そしてもうひとつ。一九四〇年代末、中国共産党との内戦に敗れ、しだいに南に追い詰められた国民党軍は、大陸南端の広東省で最後の戦いを強いられていた。そのとき香港沖の甘志遠のところに派遣されてきた国民党軍の海軍軍艦は、艦長以下、戦争は二の次で、海軍の艦艇を使って、ここぞとばかりに香港・台湾間の密貿易に精を出していた。
 これらのエピソードには、いずれも金銭がからんでいる。とくに最後のふたつは商売そのものだ。しかし当時の国民党軍の腐敗と堕落は有名な話である。このふたつのエピソードは、その事例をさらにかさねて紹介したにすぎない、と見ることもできよう。
 だが、甘志遠の物語にはまだ続きがある。
 戦争を利用してひと儲けしようとたくらんだ者たちが、ほかにもいた。ヤクザや海賊、そして軍とつながりをもつ日本の商社などだ。かれらは〈戦争〉と〈商売〉とを誰はばかることなく結びつけ、強引に自分たちの利益を追求する。甘志遠は国民党軍の軍人だけでなく、こうした人々とも深くかかわった。本書の後半部分は、香港・マカオとその周辺の海上を舞台として、日本海軍、日本陸軍憲兵隊、日本特務機関、国民党軍、共産党系ゲリラ、海賊、匪賊、中国人ヤクザ、日本人ヤクザ、日本商社等々が入り乱れる。
 戦争と商売とをつなぐ接点のひとつにタングステンがあった。タングステンは電球のフィラメントの材料としても知られるが、鉄と混ぜ合わせるときわめて硬い鋼鉄を作ることができ、兵器を製造するうえで欠かせない金属だった。このタングステンを、世界でいちばんたくさん産出したのが中国である。中国は、タングステン鉱を政府の管理下に置き、輸出を規制した。
 一方、日本は、一九三七年七月に日中戦争を本格化させると同時に、中国の沿岸を封鎖する。海外の物資が中国に入らないようにして、中国の抗戦力を弱め、できるだけ早く戦争にけりをつけようという計画だ。ところが中国大陸を封鎖しながらも、戦争を遂行するためには、日本自体も中国からタングステンを手に入れねばならない。
 ではどのようにして入手したのか。ここに介在してくるのが、軍の指定を受けた日本の商社、その商社と取り引きをする海賊(密輸業者)、また大陸沿岸でみずからタングステンを採掘している匪賊である。そしてタングステン鉱が移動する主要な中継点が、中立地帯のマカオだった。こうした取り引きではお金は信用されず、物々交換になる。そこで日本側から提供された見返り物資が、封鎖中の大陸沿岸に入ることにもなる。
 海賊や密輸業者に鉱石を流す匪賊のなかには、国民党軍軍官の肩書きを持つものがいた。また、沿岸の広東・広西両省が、中央政府の規制を無視して、自分たちの利益のために勝手に流出させることもあった。日本と中国の、どちらの側からも物資の移動が遮断されているはずの沿岸線で、こうしてタングステンとその見返り品が相互に流れる。甘志遠はその第一線に身を置いていた。
 そこは、腕力がものを言う世界でもある。彼はまもなく私兵を育て始める。漁民、島民、海賊、兵隊くずれ、警察署の留置場から保釈した殺人犯や強盗、などを集めたという。こうして自分の船を武装し、彼自身、〈海賊〉に一歩近づく。
 香港に駐留していた日本海軍は、このような甘志遠を広東海防軍の総司令官に任命した。海防軍は中国人からなる海上部隊だが、日本の海軍に統率されていた。つまり、中国人でありながら敵国日本の意のままに動き、利用される部隊で、こうしたものを歴史家はよく〈傀儡軍〉と呼ぶ。傀儡とは、あやつり人形のことだ。日中戦争中、日本軍は中国の各地に傀儡軍を作っている。ただし、ほとんどが陸軍部隊であり、海防軍のような海上部隊が紹介されるのは非常にめずらしい。甘志遠はこの海防軍を率いて、南シナ海の海賊に戦いを挑む。
 中国の史料に現れる最初の海賊は後漢の張伯路だという。だがとりわけ有名なのは明代の倭寇だろう。これはもともと日本人の海賊集団だった。明末清初には鄭芝龍と鄭成功の親子がいる。清代に入ると、張保仔(一三一頁)のような大海賊のほかに、ベトナムの海賊集団も広東の沿海を荒らしまわった。
 やがて清朝も末期にさしかかり、中国の港が西洋諸国に開かれ始める。このとき、清朝政府のほかに、たとえばイギリスの砲艇なども中国沿岸の海賊退治に乗り出し、これ以降は、以前のような大集団の海賊は姿を消し、小さな集団になっていったという。
 甘志遠が遭遇したのは、この段階の海賊といってよいだろう。亀齢島の凌炳権、バイアス湾中央列島の林、海陵島の「護航隊」、陽江の林貴。日本軍によって封鎖されたはずの沿岸で、海賊たちは自分の縄張りを主張しつつ、しっかり生き残っていた。
 甘志遠が海防軍の総司令になったとき、燃料と弾薬を日本軍が供給する以外は、経費は自弁する取り決めができていた。しだいに膨張していく海防軍を維持するため、彼はアヘンに手を染めかける。上海の児玉誉士夫を通して仕入れ、マカオで売る。日本海軍の武官も承知のうえでの計画である。児玉は上海で海軍の物資を調達していた右翼で、戦後、政界の黒幕といわれた男だ。
 アヘンが中国の庶民をどれほど苦しめることになるか、その恐ろしさを甘志遠が知らないはずはない。しかしそれよりも、自分の部隊を養うことの方が大切だった。彼は今、本物の〈海賊〉へと、さらに一歩を踏み出そうとしていた。だが、幸いと言うべきか、事故によってアヘン購入計画は流れ、やがて戦争も終わる。
 甘志遠の自伝に入る前に、中国の匪賊や海賊が、日中戦争とそれに続く国共内戦にどのように関わったのか、以下に簡単に素描しておこう。

アウトローたちの日中戦争
 中国の民国時期は、さまざまな匪賊が横行した時代でもあった。匪賊や盗賊といえば、すぐに「略奪」を連想してしまうが、かれらの行動様式には、それにもまして重要な側面がふたつある。ひとつは保護費、つまり用心棒代の徴収がかれらの重要な収入源だったことだ。匪賊を、やたらとあちこちを略奪して歩くだけの集団と考えることは、間違いである。海賊の場合も同様だった。
 そしてもうひとつの側面は、ある程度の実力をつけると、政府の正規軍への道が開かれていたことである。中国には、「役人になりたければ、まず盗賊の頭になれ」「暴れ方が大きければ大きいほど、もらえる官職も大きい」ということわざがあった。政府はしばしば、盗賊集団をそっくりそのまま一部隊として正規軍に編入し、親分は一夜にして正規軍の部隊長へと出世する。これは、力をつけすぎた盗賊に対する、ひとつの有効な対処法だった。小説ではあるが、最後には官軍となる『水滸伝』の梁山泊集団などは、その典型だろう。
 そして、民国の時代になっても、まだそのようなことが行われており、しかも正規軍になったからといって、匪賊たちはそれで満足してしまうわけでもなかった。一例として、本書の主要な舞台となっている広東省で、広州市東方の地域を縄張りとしていた袁蝦九を取り上げてみよう。
 一九二五年=広西軍第五師第一新編旅長になるが、まもなく匪賊に戻る。
 一九二八年=第十三師第三補充団団長になるが、まもなく軍閥戦争で広東からみて敵側につく。
 一九二九年=第八路軍直轄の総部独立団団長になるが、まもなく匪賊に戻る。
 資料が比較的よく残っている二〇年代だけでも、このように変転を繰り返している。これは匪賊の行動パターンのひとつをよく表している。目先の状況を見ながら、すこしでも自分に有利な方向へと移っていくのである。
 それでは、やがて日中戦争が始まり、日本軍というおおきな勢力が中国に割り込んできたとき、かれらはどのような行動をとったのだろうか。
 ここですこし視野を広げて、日本軍が中国へ侵攻するうえでとくに焦点となったふたつの地域、つまり「満州国」が作られた中国東北部と、汪精衛(兆銘)政権が作られた南京・上海周辺の様子をまず見てみよう。
 東北部の匪賊は一般に馬賊といわれる。一九三一年に満州事変がおこると、かなりの数の馬賊が中国政府の抗日軍に参加し、また独自に抗日武装組織を結成した。二、三の例を挙げてみよう。
 東北国民救国軍=高鵬振を首領とし、おもに匪賊からなる。
 東北民衆自衛義勇軍=遼寧省の元警務処長・黄顕声が率いる。
 黒竜江救国軍=馬占山を名目上の司令官とする。
 一方、日本軍の側についた馬賊もあり、熱河遊撃師司令に任命された李守信、一度は抗日部隊として名をあげたが、やがて日本側に引きこまれた殿臣などはその例である。さらに伊達順之助のように、日本人自身が馬賊の頭目になっているものもあった。
 華中に目をむけると、上海と南京のあいだに太湖という湖があり、その周辺には水路が縦横に通じている。この一帯が、上海・南京地域の匪賊の巣だった。すくなくとも近代以降の太湖の匪賊は、太平天国の乱の混乱のなかで成長してきた「槍匪」が、そのひとつの淵源となっているという。槍とは銃器のことで、銃をそなえた船を使って水路をかけめぐっていた。かれらのおもな収入源は、塩の密売である。
 一九三七年にこの一帯を占領した日本軍は、翌年に南京で組織した「維新政府」のもとで中国人部隊を作り始めていたが、一九四〇年に汪精衛の政府ができると、この部隊をさらに「和平救国軍」へと再編成する。これらの軍隊は、国民党軍の敗残兵のほかに太湖の盗賊をも吸収し、とくに和平救国軍の第二、三、五師団には匪賊出身者が多かったという。
 これに対して中国側は、「忠義救国軍」や「別動隊」といった部隊を組織し、やはり匪賊を組みいれた。
 太湖では、さらにもうひとつの勢力が匪賊に接近した。共産党系の新四軍である。共産党は、毛沢東や朱徳らが一九二〇年代後半に党の軍隊を組織していったとき、おおくの匪賊を改造しつつ自軍に取り込んでおり、もともと盗賊とは浅からぬ縁がある。
 新四軍は太湖の匪賊にたいして、それを討伐するか、もしくは改造して共産党の側につけるか、このふたつの方法で臨んだ。しかし、いったん味方に引きいれた盗賊も、状況が悪くなればしばしば日本軍に投じたり、または忠義救国軍に走ったり、けっして安定した勢力にはならなかった。
 ここで広東の状況に戻ろう。袁蝦九の場合は、その後、広東省当局に武装解除され、一時、香港の大嶼山(ランタオ島)で農場を経営していたが、一九四二年に故郷に戻ると、県政府のもとで抗日自衛団の支隊長となった。国民党政府の側についたわけである。
 一方、日本軍と結んだ匪賊もいた。その代表は李輔群である。日本軍進攻後に、その庇護のもとで急速に勢力をのばし、陸軍第二十師団副師団長、歩兵第四十旅団旅団長などの肩書きをもち、番禺県市橋に本拠地をおいて「市橋皇帝」と呼ばれていた。また万頃沙の劉発如は、国民党軍の肩書きをもつと同時に、日本軍とも関係があった。
 もちろん、戦争などにはおかまいなく本来の自分の仕事に精を出す匪賊、海賊もいる。そのためにわざわざ特別な一隊を編成して、道行く商人を守った共産党ゲリラがあり、また住民から連絡を受けた日本軍が、村を荒らしていた海賊を撃退した事例もある。
 さらに広州と汕頭のなかほどにある海豊という海沿いの地域では、こんなことがあった。ある日、洋傘をさした婦人が日本軍の陣地にやってきた。そして、「あなた方の仲間が部落にきて物をもっていくが、非常に迷惑しているのでやめてほしい」と苦情を言う。郷長に頼まれて来たものらしい。たどたどしい日本語だったが、その語るところによれば、彼女は熊本県天草出身で、日露戦争直後にシンガポールに渡り、華僑と結婚してこの地に住み着いた。名前は「山下おふく」だという。ところが驚いたことに彼女は、ここに駐留中の部隊を正規の日本軍ではなく海賊だと考えていた。部隊の中尉が、今、日本と中国とが戦っているのだと説明しても、山下さんにはそれが分からないらしい。
 これは彼女だけが理解しなかったのではなく、その村の人全部が分かっていなかった可能性が高い。まったく別の連隊の日本兵の体験であるが、広州近くのある村で、「あなた方は何省の軍隊か」と村人から尋ねられた例もある。
 当時の戦争の大枠は、あくまでも日本と中国との戦争である。しかし、よく知られているように、国民党軍と共産党系軍のあいだでしばしば衝突が起こっていた。そしてそれだけでなく、こうして最前線では、国民党系部隊、共産党系部隊、日本軍、それぞれこの三者についた匪賊・海賊、そして本来のままの匪賊・海賊、これらが三つどもえ四つどもえの戦いをくり広げ、しかも当の戦場の住民でさえそれをよく理解していない場合がある、そうした混沌とした状況があった。



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