■あとがき

 イヌネコサルウシブタたちの姿は、アジア各地の路上を歩けばいたるところで見かける。

 連中は地元民からもつきはなされ、旅人からも相手にされず、ただそこに居るだけの、風景の一部みたいな存在だった。そんな連中が人間と付きあううえでの恩恵といえば、〈ニンゲンサマ〉がはき散らす〈文明〉の残りかすを、少々あやかる程度だった。連中は、明日をも見えぬきびしい社会のなかで生きてはいるが、人間から無視されているそのぶん、むしろ悠悠自適に暮らしているふうに私の目には映った。

 そのきびしい社会とは、私が旅をはじめた当初のアジアの人々にもいえる話だった。貧困な国で生まれ、スラムのような居住区に住み、慢性的に金がなく、明るい未来なぞ見えてこない。そんな人々が演じてくれた数々の〈人間劇場〉は、経済力だけが先行しそれと引きかえに失っていく人間模様の危うさと、人間も捨てたものではないという安堵感を十分教えてくれた。

 イヌネコサルウシブタたちは、いままで描いてきた〈旅中ドラマ〉のなかでは、端役にも入らなかった。そんな連中をなんとか表舞台に登場させようと、撮影済みのポジやネガを点検し、また何度かアジア方面を訪れていくうちに、奴らは〈ニンゲンサマ〉の鏡みたいな存在であることを再認識させられた。

 旅先で出会うイヌネコサルウシブタたちは、私を含む〈ニンゲンサマ〉のもつ、おぞましさも、意地汚さも、自己中心的エゴ意識も、だらしなさも演じていた。同時にしぶとくもあり、たまには愛らしくもあり、またヘンな奴らでもあった。いまの日本では、ぶくぶくと太ったブスネコだろうが、殺される寸前のブタであろうが、ヤキトリ屋で酒を飲みかわすオッサンだろうが、なにがなんでも「かわいい」という一言でくくられる傾向がある。ここアジア方面では、可愛さだけでは生きてゆけない路上の動物たちが、多様な〈自己主張〉を展開していた。

 この本で私は結局、自己の感性すら自らが築きあげた〈文明〉によって鈍化させられている〈ニンゲンサマ〉の危うさを、路上動物をとおして見届けようとしたのかもしれない。その成否はともあれ、連中が伝えてくれた数々のメッセージが、この本を成立させたという意味で、奴らは文字どおりこの本の主役となった。

(略)

二〇〇〇年三月

サカリがついたネコがわめき散らし、眠れなかった日の午後に。 日比野宏



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