プロローグ

 世界は大小さまざまの謎に満ちている。どんな素朴な暮らしにも秘密があるように、歴史にもまた秘密がある。なかでも、最大のものはキリスト教の起源にまつわる謎であろう。イエスという人物は何者なのか。どこからやってきたのか。その真の使命は何だったのか。ブッダやムハンマドのような、その生涯がつまびらかで、言行録も残っている人物とはちがって、歴史上の人物としてのキリストにはいまだ謎がつきまとっている。

 聖書の物語はきわめて断片的だ。福音書をキリストの伝記として扱ったとしても、キリストについての情報は驚くほど少ない。人格形成期にあたる一二歳から三〇歳にかけてのキリストは、われわれの前からすっかり姿をくらましてしまう。この青春期から青年期にかけてのひじょうに重要な時期に何があったのか。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは何かを知っていたのかもしれないが、そろって口を閉ざしている。福音書の内容から考えて、当然、キリスト教はたんにユダヤ教を時代の要求に合わせて改変したものだと見る人が多い。結局のところ、イエスはユダヤ人だ。それどころか新約聖書の言葉を信じるならば、イエスは伝説の王ダビデの直系の子孫なのだ。イエスの三年にわたる活動の大半はユダヤ人を相手にしたものであった。そこで彼は待ち望まれたユダヤの救世主として歓呼して迎えられたのである。

 では、なぜイエスの教えはユダヤ教とは似ても似つかないのか? 人は、預言者キリストに、偶像を捨ててモーセの律法に従うよう熱弁を奮うエレミヤやエゼキエルのような役割を期待していた。実際、福音書には旧約聖書からの引用がたくさんある。とくにイザヤの予言は多く引かれている。しかし、それらはキリストの教えにとって、何ら重要性をもっていない。聖書中のイエスは、知的で、寛大で、病人を癒し、罪人とともに食事することをいとわない人物だ。安息日の労働の是非などより、寛容と慈悲、他者を許すことこそだいじだと説く。イエスは、異邦人に対してもたいへん友好的だった。ローマ人に対してさえ、そうだった。実際、聖書におけるもっとも重要な例え話の一つに、「善きサマリア人」[ルカによる福音書一〇章]の話があるほどだ。そこでは、慈悲深き人は人種や国籍にかかわらず、神の目には高潔な人物に映ると、はっきり述べられている。

 イエスという人物がとくに革命的だったとは思えない、と述べる者もいる。福音書の物語では、イエスはすすんで罠にかかり、罪人として捕らえられ、裁判にかけられ、磔刑に処されたとある。ヨシュアのように、ローマに抵抗して人びとを導くどころか、イエスは弟子たちに「カエサルの物はカエサルに」と教えた。それは反逆者のリーダーの言葉とは思えない。

 福音書から明らかなことは、イエスが当時のユダヤの権威に対して危険な影響を及ぼすと見なされていたことである。イエスは、パリサイ人とサドカイ人をあからさまに罵った。イエスをいっぱい食わせようと難問を出した彼らを、イエスはしばしば公衆の面前であざけった。姦通した者を石打ちの刑に処す、といった権威者の取り決めに対しても、イエスは軽蔑的な態度をとった。そのことで、イエスはいっそう胡散臭い人物と見なされた。結局、イエスという人物ならびにその教えは、大祭司の高等評議会の不興を買った。イエスは危険な異端者と見なされたのだ。福音書を信じるならば、祭司たちはイエスを恐れるあまりローマ人と共謀して、彼を死に至らしめたのである。

 キリスト教を一般に広めるにあたり教会は、それがまったく新しい啓示であるかのような装いをあたえた。世界史のなかで地上に突然もたらされた雷光、それがキリスト教であるかのようだった。だが、これは本当だろうか? この卓越した宗教に先立つ教えはなかったのだろうか? 福音書の物語を客観的に見れば、ユダヤの大祭司がイエスを背教者と見なしていたのは明らかだ。これはたんにイエスがモーセの律法を拡大解釈していたせいばかりではない。イエスの教えには、明らかに非ユダヤ教起源の部分があったためである。しかしながら、これはさらなる疑問を生む。そのような非ユダヤ的源泉とは何なのか? イエスはどのようにして、その源泉と接触することになったのか? それこそ、わたしの探求のテーマであり、またマギ[マタイによる福音書に登場する東方の三博士]に関心を抱いた理由である。マギこそ、この隠された叡知の源泉と何らかの関わりがあるように思えた。

 二〇代初めにベツレヘムを訪れて以来、二〇年以上にわたって、わたしはマギの伝説の背後にひそむ真実を追い求めてきた。東方の三博士の物語は、なぜかわたしの心に刻みこまれてしまった。それはおそらく、この物語の奥に、より深い謎がありそうな気がするためではあるまいか。そういえば子供の頃、父のゴルフボールを切り裂いてみたことがある。そのサイズに比べて、どうしてゴルフボールがこんなに重いのか不思議でならなかったのだ。溝のある、硬い外皮の下に、ひじょうに長いゴム製の繊維のかたまりがあるのを発見して、わたしは驚いた。このゴムの繊維をほぐしていくと、ついにボールの核に達した。それは風船状の小さな物体で、中は液状の白鉛で満たされていた。この隠された破れやすい物体こそ、ゴルフボールの弾力性の秘密であった。

 この思いがけない発見は、わたしにとって、秘教的な知識の探求に通じるものだった。マギとその属していた――とわたしが考えている――秘密の教義をたどるためには、神話学の背後に横たわる「多義的な」象徴や思想を丹念にときほぐす必要がある。ゴルフボールを切り裂いたときのように、象徴体系、歴史、科学、神秘主義などが織りなす層の下、つまりキリスト教の核にあたる部分に、ある秘密があるのをわたしは見出した。謎のなかの謎ともいえるその秘密は、ゴルフボールの核をなすような白鉛ではなく、むしろ星屑のようだった。わたしの考えでは、世界の多くの人びとが神の息子として崇拝するようになった救世主イエスは、単独で活動していたわけではない。イエスは、彼が演ずるべき歴史的な役割(運命)と、秘教的な知識の両面について、隠れた叡知の師匠たちの指導を受けていたのではないか。

 キリスト教徒のなかには、キリストが神であるとともに人であると説く、いわゆる「単性説」の信奉者もいる。彼らによれば、キリストの肉体と魂は永遠に分かちがたく結びついているので、受胎したそのときから、キリストは自分の人生における役割を知っていたことになる。わたしの説は、そんな人たちの気分を害するかもしれない。だが、わたしが手ずから導きだした結論を退ける前に、読者ご自身の目で本書に掲げた証拠を検討していただければ幸いである。

 エイドリアン・ギルバート



戻る