■まえがき

 ドキュメンタリーとは、映像表現による現実批判である。それは、世界のあり方を批判的に受けとめるための映像表現である。そのためには、映像作家の主体性が確立されなければならない。これが、本書で展開しようとするドキュメンタリー論の骨格である。それはまた、私のささやかな映画づくりの規範でもある。

 ドキュメンタリーの界隈にまとわりつく政治主義や啓蒙主義から離れて、〈虚実の境目〉に漂う不明晰な世界を、その多面体のままにとらえたいという欲望が私にはある。映像には、言語を超えた何ものかを、カオスのままにとらえる力がある。そうした映像の力を信じ、観客の想像力を信頼して、現実に分け入っていきたい。これが、私の志向するドキュメンタリーの基本的立場である。

 したがって、本書は、ドキュメンタリーの包括的な理論書でも、客観的な歴史書でもない。あくまで、私の志向するドキュメンタリーの方法論を検証するため、先達の歩んだ道に学ぼうした作家論である。上・下巻を通して、八つの方法論、一六人の作家とその作品について論じている。第一章「暮らしながら撮る」ではドキュメンタリーの原点について、以下章を追うごとに時代を経ていくような構成を心がけたつもりではあるが、必ずしも歴史的展開と重なる訳ではない。一つの方法論ごとに、日本と海外のドキュメンタリー作家が交互に登場するように心がけたが、設定したテーマによっては必ずしもそう上手くいく訳ではない。したがって、本書で触れた作家とドキュメンタリーの方法論が、ドキュメンタリーのすべてを包括するという考えは毛頭ない。ややもすれば意味や意図に硬化しがちなドキュメンタリーの世界で、〈無意味〉と〈無意識〉を探求する先達の作品の方法論から学ぼうという、私の独断と偏見によって選択されたまでのことだ。

 この私の独断は、否定すべき旧弊に怒るあまり、時に罵倒に近い論調になってしまったところもあるが、誰かを貶めようとした悪意から出たものでない点、平に御容赦願いたい。「退屈で説教臭いドキュメンタリー」という世間のイメージを少しでも変えたいという思いから発した勇み足、と笑って受けとめてもらえれば幸いである。他人を論難する刃は、必ず我が身に返ってくる。その覚悟だけは胸中に秘めたつもりである。

 映像には必ず得体の知れぬ何ものかが映り込んでいる。だがそれは、政治的主張という色メガネや啓蒙主義的教師根性によって目隠しをされてきた。私が、ドキュメンタリーの政治主義や啓蒙主義を否定する理由はそこにある。この得体の知れぬ何かは、少なくとも言語表現を超えた何ものかであり、つかみどころのない生そのものともいえるかもしれない。つかみどころのない生、解決する糸口が見えない矛盾をそのまま冷徹に映し出すことが、世界を批判的に受けとめることになる。ただ、そのためには、様々な方法論、いくつものアプローチの仕方が必要になるだろう。その得体の知れぬ何かは、つかみ方を誤るとスルリと逃げられてしまう。また、先達の方法論をそっくり真似れば上手くいくとも限らない。意図や意味に縛られていると、見えてこない。編集の最終段階にならないと見当もつかないあやふやなものである。しかし、そのつかみどころのなさこそがドキュメンタリーの魅力であると、私は考えている。



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