■あとがき

 どうやら私の筆は、ひとたび走り出すと、どこまでも拡散してどうにも止めようがないものらしい。最後まで本書におつきあいいただいた読者の方々には甚だ心苦しい限りではあるが、当初はこんな大部の本を書くつもりは微塵もなかった。最初はドキュメンタリー映画史のささやかな小冊子を作るつもりだったのである。(中略)ところが、書き始めているうちに、八つの方法論、一六人の作家に拡がって、知らぬ間に一八〇〇枚近い論考に膨張してしまった。
(中略)
 恥ずかしいほど寡作ではあるが、私もドキュメンタリーの実作者の端くれである。したがって、作品論も作家論も、あくまで実作者の立場から方法論に分け入ることを試みるしかない。映画史の知識も作品分析の道具立てもなしに、実作者の実感だけで断定してしまう甘さについては充分承知しているつもりである。特に映画技術史については、伝聞に基づいているため、いささか心もとない点が多い。

 しかし、本書にもし意義があるとしたら、一人の実作者の視点で、ドキュメンタリー映画の可能性を、あくまでその方法論に随伴して考えようとした点にある。一六人の映画作家の選定は私の独断に過ぎぬとしても、八つの方法論はそれなりに正鵠を得たものであろう。研究者とは違って、包括的とはとてもいえないが、手に入る範囲の文献を渉猟しながら、私なりにドキュメンタリー作家の残した文章と対話することをいの一番に心がけた。なぜなら、それぞれの作家の個性は、スタッフ論や編集論のディテールにこそ色濃く反映されていると思ったからだ。

 本書が、これほど大部のものに膨張した理由もここにある。どの映画作家も思いのほか莫大な「ドキュメンタリー現場論」を残していた。まとまった著作や文献の形をとらずとも、対談や講演の形で自らの現場論を真摯に語り続けていたのである。しかもその多くは、現実とフィルムに映った事実がいかに違うかという問題意識に裏打ちされていた。キャメラとは、私が見ている様には決して撮ってくれないもうひとつの〈眼〉だったのである。それは、私のささやかな実作上の現場体験と見事に符号した。そのため、それぞれの映画作家の個性あふれる現場論を、なるべくそのまま〈引用〉することを心がけているうちに作家論はみるみる膨張を始めていったのである。また、累々と書き連ねてきたNHK批判や一部の映像作家批判も当初の目論見では全く考えてもいなかったものである。ドキュメンタリー作家の残した文章と対話を続けているうちに、論理必然的に「間違っているものは間違っているのだ」と論旨が展開したまでのことだ。だが、こうした罵詈雑言も、特定の個人を貶めようとした意図から出たものではない点で、平に御容赦願いたい。

 本書に込めた私の主張は極めて単純である。それは、「ドキュメンタリーは世界を批判的に受けとめるための映画だ」ということだ。そのために政治主義や啓蒙主義から訣別すべきことは最早、論をくり返す必要もないだろう。むしろ今後の問題は、確固たるものであったはずの、世界の内実の方である。我々をとり巻く世界のあり様が、今や大きな変容を遂げ始めているのだ。つまり、人々の記憶も知識も情報も、価値観や世界観に至るまで、リアルなものからバーチャルなものへと大きな変容が始まっている。こうした時代背景において、ドキュメンタリーがその対象とする〈現実=世界〉も、リアリティのあり方も、大きな変容を余儀なくされるはずである。二一世紀のドキュメンタリーは、メディアとそのバーチャルリアリティ空間にきちんと対峙する必要があるのだ。(中略)

 願わくば、本書がドキュメンタリー映画のステレオタイプの解体に少しでも寄与出来ることを祈って筆を擱くことにする。

 二〇〇〇年一一月二九日
 佐藤 真



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