■まえがき(序)

【知識の危険性】

 世の中には知ってはならない事柄というものがあるだろうか。何の束縛もなく物事が企てられ、はてしなく拡張を続ける現在の私たちの文化にあって、個人であれ組織であれ、知識に制限を設けようなどと本気で提案することが可能だろうか。私たちは、このような問いかけの持つ道徳的な側面を把握し尊重する能力を失ってしまったのだろうか。

 人は、しだいに大胆さを増しながら自然の神秘を次々に解き明かしているうちに、そうして得た知識が答え以上に多くの問題を生み出す段階に達してしまったのかもしれない。人口の爆発的増加とエイズによる死者の急増のようにまったく対極にある脅威も、元をただせばいわゆる「進歩」の産物のように思われる。しっかり歴史を眺めてみさえすればわかるのだが、この地上でもっとも先進的な国々は、想像を絶する破壊兵器を製造すると同時に、すさまじい暴力描写を氾濫させるメディア文化を発達させてきた。このような組み合わせが、私たちを蛮行と自己破壊へ向かわせないはずがあろうか。

 これとは対照的に、人間として真に奇跡的な偉業は、実験室やスタジオや電子ディスプレイからはるかに離れた場所、別世界にも等しい場所で、無意識のうちに個人単位でひっそりと成し遂げられる。人間は、自分が何をしているのか知らぬまま、そして、誰も適切に説明できない形で、さまざまなことができるようになる。人は生まれてから二年のうちに、身の周りの事物を認識・識別し、自分の足で立って歩き、言語を聞きとり、話すことを覚える。やり方を知らないからこそ、そうした離れ技をやってのけられるということは考えられないだろうか。人は、知らず知らずのうちに何かの知識を得るということがありうるだろうか。こうした疑問を呈したからといって、反知性主義者やラダイトになったことにはならない。知りすぎるとかえってためにならぬことがあると説くことわざは、どの国にもある。多くの有名な神話や伝説も、知識のはらむ危険性を追究している。幸い、幼児は今も昔も変わりなく、歩くこと、話すことを学ぶ。だが私たちの多くは、膨張を続ける現在の文化の将来に懸念を抱いている。
(中略)
 いつの世でも、戦争や災害や犯罪のニュースは人を震撼させてきた。そうした古くからの災いを取り除けぬまま、人類は新たな悩みの種まで抱え込んで嘆くことになった。二〇世紀末に生きる私たちは、驚嘆すべきであると同時に悲嘆すべきでもある出来事をいやおうなく見聞きする。そうした出来事を引き起こすのは、後進性や無知ではなく、進歩を続ける知識とその応用だ。非常に野蛮な国家ばかりか、高度に文明化された国までもが巨費を投じて、想像を絶する破壊力を持つ核兵器や生物化学兵器の開発に精を出している。遺伝子研究が進めば、やがては、壁紙の柄でも決めるように、生まれてくる子供の肉体的・精神的資質を選べるようになりかねない。人の生後まもないうちから暮らしのいたるところに侵入してくる視聴覚メディアは、遺伝子操作と同じぐらい強制的に私たちの性格や行動を形作る恐れがある。また、私たちはエネルギー資源を探し求めることで地球の寿命を縮めているのかもしれない。科学研究・言論の自由・芸術の自主性・学問の自由が結びつくと、本書で論ずるように、その相乗効果のせいで、私たちはもはや主体的な人間として自らの運命を操れなくなってしまう。人間にとって絶大な恵みであるはずのものを、私たちは持て余してしまうのだ。
(中略)
 「タブーの」「オカルトの」「神聖な」「口にするのもはばかられる」――こうした言葉を用いて、過去の諸文化は人間の知識と探究の限界を認めていた。かつては尊ばれていた、この禁断の知識という概念に、何が起こったのだろうか。私たちは日常生活の中で、環境規制から、交通法規、さらに無断欠席を禁じる校則に至るまで、多岐にわたる制約を便宜上受け入れている。ところが精神活動とその表現方法となると、西洋の思想家や組織や制度はいかなる種類の制限も、根拠のない無意味なものとして退ける傾向を強めている。異端や冒涜を罰することは、もはや必要ないというわけだ。精神活動の表象的産物を完全に自由にやりとりしても、かならずしも日常生活の領域に悪影響を及ぼすことはなく、かえってそれを高めうるという暗黙の前提を、研究者も、芸術界や芸能界も、よりどころとしている。

 私たちには、行動を制限する法律と慣習がある――無法者や乱暴なギャングや組織犯罪にかかわる人間によってそれが踏みにじられることはがままあるにしても、だ。その一方で、言葉や絵画、映画、録音テープ、CD、ビデオ、テレビ番組といった、精神活動の表象的産物は、行動と同じような抑制を受けないし、受けるべきでないとされてもいる。この二重構造が原動力となって、西洋の文化は長年にわたり、あらゆる分野で拡張を続けてきた。したがって、この二重性は、つまびらかに検討してしかるべきだろう。 (中略)
 私は本書でこの〈禁断の知識〉を探究しようと思う。これは、探究することによって最終的な結論を下そうという試みであって、実例を引きながら禁断の知識の一理論を展開しようという趣旨ではない。

【誤作動する知識】

 一九四五年八月、日本に二発の原子爆弾が落とされたことで、私の命は救われたと言っていいだろう。少なくとも、私は長いあいだそう信じていた。私は太平洋南西域で軍用機のパイロットとして一年を過ごした後、沖縄の爆撃隊に配属された。その部隊は、日本本土侵攻作戦の第一陣として上陸する予定になっていた。任務は上陸拠点の近くに滑走路を仮設することだった。侵攻地点がどこになるかは知らされなかったが、五〇パーセントを超える死傷率が見込まれることははっきり告げられていた。それからまもないある夕方、ピラミッド型テントの群の上に吊り下げられたスピーカーが鳴りだし、〈新型爆弾〉とヒロシマという名の都市に関する不可解なメッセージが流れた。基地の誰かが、「戦争は終わりだ」と叫んだ。

 その数週間後には、アメリカはもう日本への侵攻者ではなく朝鮮の解放者になっており、私はB25爆撃機で瀬戸内海上空を飛び、広島を眺める機会を得た。上空三〇〇メートル、エンジンの猛烈な爆音だけが響く操縦席から、一面焼け野原となってくすぶる街が見えた。私たちは死傷者の数や死傷の実態についてまったく無知だった。自分たちがくぐり抜けている放射能の影響も知らなかったのだからおめでたい話だ。すべてを知ったのはその一年後、『ニューヨーカー』誌に載ったジョン・ハーシーの「ヒロシマ」という特集記事を読んだときだった。

 一五年後、二発の原子爆弾が全世界に及ぼした影響は、見まごう余地もなくなった。世界は〈恐怖の均衡〉の中に取り込まれて身動きができないでいた。一九六一年の復活祭の日曜日、私はテキサス州オースティンの州議事堂前からバーグストロム戦略空軍司令部基地まで、核兵器の製造と配備に抗議する三時間のデモ行進に参加した。通りすぎる車やトラックから、唾を吐きかけられ、ビール瓶を投げつけられた。しかし、私の信念は少しも揺るがなかった。

 こうした一連の重要な出来事を経ながら、私は視野の縁で警告灯がつねに瞬いているのを捉えつつ、長い年月を生きてきた。その警告灯は、私たちが道をそれてしまった、何かの仕組みが誤作動してしまった、と信号を送りつづけている。なぜトルーマンのような人道的な大統領が、人口の密集した都市に二発の原子爆弾を落とすなどという決断を下したのか。なぜ私たちは水素爆弾を開発して、より多くの生命と社会をそっくり危険にさらすまでになったのか。そしてまた、そうした想像を絶する兵器のおかげで、二つの敵対する超大国のあいだに半世紀近くも平和が保たれるとは、そこにいったいどれほど歪んだ人間の論理が働いているのか。次のミレニアムを目前にして、私たち――アメリカ人だけでなく、地球の全住民――は、核兵器拡散の脅威のために、自らの未来を意のままにすることができなくなってきているのだろうか。

 警告灯はまだ瞬いている。その信号が注意を向けるように促しているのは、私たちが魔術さながら原子から引き出した破壊的な力ばかりでなく、もっと本質的には、日常生活の中でつねに人々につきまとってきたもの、つまり禁断の知識の危険と誘惑だと、私は確信するに至った。
(中略)
 本書第1部「欲望とモラル」では科学の実験と淫らな興味という、前述の二つのモチーフを扱う。第2章では、科学の歴史で起きた多くの出来事と、どのようなものであれ禁断の知識という概念によって暗示された制約に、それらの出来事が投げかける課題について考える。第3章では、人間の本質の中に宿っている悪、もし解き放たれれば、待っていましたとばかりに人間の行動の支配権を奪回する悪に関する大きな問題に迫る。そのために、マルキ・ド・サドの人生と著作、そして二〇世紀における彼の復権を考察する。これら二つの章が対象とするのは、おおいに論議のある諸問題――おもにモラルの問題である。最後の第4章では、禁断の知識の実用的・倫理的意味合いと、それらが人類の未来に対して持っている意義を考える。

 第2部「好奇心とタブー」では文学作品を取り上げる。第5章は非常に雑多な題材を集めることで、禁断の知識というテーマの概略を示す。したがって、読者にとってはいちばん苦労の多い章になるだろう。第6章から第9章までは、それぞれ一作品ないし二作品に対象を絞っている。このように第2部では、禁断の知識の総合的な歴史と、そのさまざまな実例を数多く示そうと思う。

【読者のみなさんへ】

 日本語版の編集者と訳者の勧めを受け、著者である私、ロジャー・シャタックは、本書の構成の変更に同意しました。第1部と第2部を入れ替えたため、今日的なトピックを扱った二つの章が、第1部に回り、「物語の歴史」は第2部に登場します。ほかにも細かい変更を加えてありますが、これらの変更はすべて、日本の読者のみなさんが本書を読みやすくするためのものです。――ロジャー・シャタック



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