◆多様な世界へ――プロローグ

 初めて東南アジアと呼ばれる地域を訪れたのは、一九八二年の冬だった。オーストラリア、ニュージーランドを旅し、「帰りに少し寄ってみようか」という軽い気持ちでシンガポールのチャンギ空港に第一歩を踏み出した。

 チャンギ空港は、当時の成田空港よりもはるかに大きく、しかも入国までのルートもわかりやすかった。市内に向かうために、熱帯である東南アジアを実感させないほどエアコンのよく効いた空港内から地下バスターミナルへと降りた。いきなりねっとりした湿気がまとわりつくように全身を包み込み、汗が体中から吹き出た。あの瞬間、それは忘れられない感覚として頭の中に鮮明に残っている。

 シンガポールは今でこそ、街中に高層建築が並び、緑の多い、しかも清潔な都市国家としてよく知られているが、僕が初めて訪れた時は、まだ経済成長が始まったばかりのころで、高層の建築物はほとんど工事中という状況にあった。路上屋台の禁止された現在とは違い、チャイナタウンの狭い路地には、通りを埋め尽くすくらいいろいろな屋台が出ていた。衣料品やミュージック・テープ、雑貨などの屋台に混じりながら、食べ物屋台が薄汚れたショップハウスを背に、通りの一画を占めていた。食い意地のはった僕は、これ幸いと、シャツを汗だらけにしながら、屋台の間をうろつき、食べ歩いた。

 何がどんな食べ物かもわからずに、ただ屋台の前でうまそうな物を食べている人がいれば、それを指差して注文した。中華もあれば、マレーもインドもあった。屋台主は、カキ油や香辛料の匂いの中で、汗まみれになりながら次から次へと料理をつくっていた。夕方になると、それこそ祭りの縁日のように大勢の人が集まり、夜が更けるまで大きな声で談笑しながら食事を続けていた。また別の一画に目を移すと、屋台主と衣料品を買い求める客が大声で「まけろ」「まけない」といった値切りあいに興じていた。

 匂い、汗、喧騒……屋台街は混沌としていた。人の少ないオーストラリア、ニュージーランドの旅のあとだっただけに、屋台街の中に渦巻く熱気がよけいに僕を圧倒した。

《アジアって凄い!》

 屋台街の一画に身を置いた僕は、心底そう思った。これがアジアへの旅の序章だった。

 その後、何度もアジア各地へ旅に出かけた。日本で旅行資金をためては足を運ぶ、ということを繰り返した。この本は、初めてのアジアの旅から一九九〇年代初め(正確にいうと一九九一年)までの何度かの旅のうち、当時日本人が陸続きに自由に国境を越えることができた東南アジア唯一のエリア「シンガポール、マレーシア、タイ」の三つの国でのエピソードをまとめたものだ。一九九〇年代の急速な経済成長もあって、各国の現状はここに記した話とはだいぶ異なってきているが、人々の気質や生活のリズムなど、特に都市部を離れた地域では、根本的にはあまり大きく変わっていないような気がする。

 旅の方法なんて人によってさまざまだろうが、僕はこの三つの国をつなぐ旅の手段としてマレー鉄道に乗ってみた。一九世紀後半に、マレーシアでの錫鉱山の発見によって初めて敷設されたマレー鉄道。最初はわずか一三キロしかなかったが、その後、ゴム農園から港への運搬用にと拡張が続けられ、現在はシンガポールからタイのバンコクまで実に一九二四キロにも達している。そんなマレー鉄道に乗りながら、シンガポール〜マレーシア、マレーシア〜タイというふたつの国境を越えてみた。また、気の向いたところでは途中下車し、そこからバスに乗ったり歩いたりした。

 急ぐ必要はなかった。気に入った町や村では特に目的がなくても何日も滞在し、飽きたらその場所を離れた。マレー半島を遡る旅は多様だった。僕を導いたパワーや熱気だけではなく、のんびりとした生活のリズムも、緑深い熱帯ジャングルも、最初不快に感じたねっとりとした湿気でさえも、旅の魅力になっていった。僕はアジアの多様な世界にどっぷりと浸かりながら旅を続けた。

 そして今も旅を続けている。






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