■あとがき

 月日のたつのは早いものだ。初めてハイチを訪れてから、はや一五年が過ぎようとしている。到着した翌日の一九八八年九月十七日、クーデターが勃発した。真っ青な大空に響き渡る銃声と通りを逃げ惑う人々。その光景は私の脳裏に、今もって鮮明に焼きついている。その事件をきっかけとして、私はどんどんとハイチにのめりこんでいった。

 一九九四年の「米軍進攻」の折には、ハイチは日本でも新聞や雑誌に大きく報道された。だが、それ以来、ハイチがマスコミで取り上げられる機会は稀にしかない。大手マスコミにとって、絶え間ない政治的混乱と貧困には、ニュースとしての目新しさが乏しいからだ。マスコミのそうした認識は、遠いカリブ海に浮かぶハイチ一国に対してだけではない。周知のとおり、同じ問題を抱えた国が世界中のあちこちにある。それらの国々もハイチと同様に見向きもされない。それが日本の大方の現実だ。

 本書や拙著『ハイチ 目覚めたカリブの黒人共和国』でも登場したが、私の友人とはスラム街の住人や露天商や土産物屋や司祭や農民など、社会の底辺で生きている人々である。彼らとの親交は、ハイチという国や社会を知るうえで、私の大きな礎となっている。

 では、彼らの現在の生活ぶりが最初に訪問した頃に比べて果たして良くなったかと問われると、自信を持って答えることはできない。苦しい生活は今もなおほとんど変わらないのだ。だが、どんなに苦しい生活であっても、死の恐怖でどんなにおびえることがあっても、彼らは自ら死を選ぶことはない。

 日本では最近、インターネット上で知り合った人々が集団で自殺するケースが増えている。ところが、ハイチでは人生に悩んで自殺したという人の話を聞いたことがない。自殺を意味するクレオール語すら私は知らないし、見たことも聞いたこともない。もちろん、私の拙い語学力のせいであろうが……。常に死と隣合わせの日常に接し、始終空腹感にさいなまれている人々は、自殺などという非日常の極致に思念が及ぶ瞬間すら訪れない――そのような意見もハイチには当てはまるかもしれない。実際、友人たちは、時には卑屈にも見えるほど臆病に振舞い、時には死をも恐れないほど大胆に困難と立ち向かってきた。そうやって彼らはこれまで生き抜いてきた。彼らを支えたのは、飽くことを知らない生への強い渇望である。

 そんな魂の底から湧き出るような人々の力に、私はいつも魅了されきた。これからもハイチに通い続けるに違いない。

 最後にハイチを訪れたのは二〇〇一年十一月である。その折、久しぶりに司祭アドノーの寺を訪ねた。本書でも紹介したが、アドノーは私が初めて見たヴードゥーの儀式が行なわれた寺の司祭である。数年前、彼はシテソレイユから南に約五〇キロの町レオガンに移り住んでいた。 広い敷地に建てた立派な寺を見て驚かされた。シテソレイユの路地裏にあった薄汚れた寺と比べると雲泥の差がある。スラム街の司祭であったことを考えると、大変な出世ぶりだ。実は、アドノーは有名なヴードゥー歌の歌手でもある。数年前にCDを発表した。それで儲けた金で土地を買い、寺を建てることができたのだ。

 訪問の際、アドノーに占いをお願いした。彼が占いで招く精霊はトワ・レタン(クレオール語の「三つの沼」)。司祭だった祖父から受け継いだ特別な精霊である。祭壇に向かって呪文を唱えると、マラカスを振りながら歌い始めた。思わず、彼の歌声に聴きほれてしまう。それだけでも、占い料を払う価値があるくらい、彼は歌が上手だ。

 アドノーは突然、手にしていたマラカスを地面に落とすと、前かがみに倒れた。ゆっくりと起き上がるアドノー。精霊が彼に憑依していた。口元からよだれが止めどなくあふれ出てくる。トワ・レタンは年老いた精霊だったのだ。口をへの字に結び、はっきりしない口調でもぐもぐと喋る。

 「お前はどうして入信しないのじゃ。祭壇にある壺の中身を知りたくないのか。入り口でたたずんで眺めていても、ヴードゥーの秘儀は分からんぞ」(トワ・レタン)

 手厳しい一言だった。ハイチ人の精神世界を理解したいと精力的に取材していたつもりだったが、私はヴードゥーなるものの周辺をやみくもに走り回っていただけなのかもしれない。実際、「ヴードゥーとは何ぞや」と問われても、今でも答えに躊躇してしまう。取材をすればするほど、その奥深さを感じてしまう。取材を通して得た成果をあえて一言で括れば、ヴードゥーとは、宗教というより、生きるために欠かせない特別な力であり、ハイチ人の生き方そのものが表出された世界であった。

 同年の夏、私はツアーでハイチを訪れた外国人の入信式を見る機会があった。彼らは米国人マンボ(女性司祭)がインターネット上で募集した入信式ツアーを知って参加した、イギリスやカナダやシンガポールや米国からやってきた人々である。入信式の費用は滞在費込みで二〇〇〇ドルから三〇〇〇ドル。初めてハイチを訪れた人たちばかりだ。言葉や儀式の作法も知らない。

 カンゾと呼ばれる入信式の所与の目的はヴードゥー教徒に生まれ変わることである。この外国人の入信式によれば、まず最初に生まれ変わり、作法やしきたりはそのあとで学ぶことになる。これではハイチ人がヴードゥー教徒になるのとは逆のプロセスである。異なる歴史や文化で育った、ヴードゥーのイロハも何もかも知らない人々がはたしてヴードゥー教徒になれるのだろうか。大いに疑問である。私がフォト・ジャーナリストであることを知った彼らは、「入信の動機」をあまり多く語ろうとはしなかった。雑誌や新聞紙上に「外国人ヴードゥー教徒」と書かれ、好奇の目で見られるかもしれないと恐れたのだろう。

 歌も知らない、踊りも上手くない。儀式に参列していたハイチ人は、彼らの姿を見て、滑稽と感じたかもしれない。ところが、だ。そんな彼らにも精霊が憑依するのを見て、私は本当に驚かされた。ヴードゥーの基本は「精霊の思し召し」である。彼らも精霊に選ばれたヴードゥの民に召されたのだ。

 シンガポールから参加したインド人は、「私はシンガポールで最初のヴードゥー教徒です。ヴードゥーの自由な信仰に惹かれました」と、誇らしげに語っていた。

 しきたりや慣習はあっても、聖書や経典の類はない。おのおのが感知するところの精霊と共に生を歩む。ヴードゥーとは個人が創造する自由な信仰である。そんな宗教は出鱈目、と批判する人はいるかもしれないが、そのインド人はヴードゥーの自由な創造性に生の可能性を見たのだろう。

 アフリカからハイチに伝わったヴードゥー。そして、ハイチから世界へ。自国に帰った外国人らは、どのようにヴードゥーを信仰し、どのように伝えていくのだろうか。もちろん、ハイチのヴードゥーがその発祥地アフリカのそれと違うように、彼らが伝えるヴードゥーも、新天地の社会環境の変化に溶け込んで、柔らかに形を変えながら信仰されていくに違いない。

 二〇〇三年四月、「ハイチでヴードゥーが合法化」とのニュースを聞いた。正直、驚いた。ヴードゥーは一九八七年に施行された憲法においてとっくに宗教として認められていたからである。

 ヴードゥーの合法化とは一体どういうことなのだろうか。その法律によれば、これまでキリスト教会で行なわれていた洗礼や結婚式や葬式などを、ヴードゥーの寺でも行なえるというものだ。なんとも奇異な法律である。私が知る限り、ヴードゥーには洗礼の儀式はない。それに精霊とは結婚するが、人間どうしの結婚に関わるしきたりや慣習はない。またヴードゥーの葬儀は、私たちが考える葬儀とは異なる。

 では、なぜこのような法律を定めたのか。ヴードゥーにキリスト教と同様の権限を付与することで、宗教としての地位を保証するのが目的ではあるまいか。在日ハイチ大使マルセル・デュレ氏によれば、この法律によって、ヴードゥーの結婚式や葬式は、キリスト教会のそれと同じように公式の記録として認められるようになるという。となれば、ヴードゥー形式の結婚式がすぐに行なわれるかもしれない。どのような結婚式になるのか、とても楽しみである。

 西欧諸国の偏見や歴代の政治指導者たちによる存在否定に抗って生き続けてきたヴードゥ。そうした歴史を念頭に置いてこの法律制定の意味するところを考えてみると、ヴードゥーは民族の誇り、とハイチ人自らが高らかに宣言したようなものだ。ともかく画期的な出来事である。

 二〇〇四年一月一日、ハイチは独立二〇〇周年を迎える。大規模な祝典が予定されているが、この法律も二〇〇周年を記念したものであろう

 本書でたびたび登場したモナの近況について一言触れておこう。久しぶりにモナからEメールを受け取った。二〇〇〇年五月、故郷ゴナイーブに帰ったモナだが、最近ポルトープランス近郊の町ケンスコフに移り住んだ。仕事を捜している。依然として低迷している経済状況を考えると、モナの苦労は続くかもしれない。彼女のメール・アカウントを確認すると、スクリーンネーム(ネット上の愛称)が精霊エジリをもじった「モナジリ」だった。思わず私の顔から笑みがこぼれた。

 また、私も本書刊行の記念も兼ねて、ささやかではあるが、写真展『ダンシング・ヴードゥー』を東京・銀座の「ニコンサロン」で十一月に開催する予定である。

(略)

  二〇〇三年七月 佐藤文則



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