■まえがき

 一〇年という時の流れは、歴史的な区切りとして、やはりそれなりの意味を持つのだろうか。日本復帰から一〇年もたつと、何はともあれ沖縄社会もある種の落ち着きのなかにあるようにみえた。沖縄社会は、一〇年という時の流れを経て、ようやく日本という社会、あるいは国家のなかに位置することに慣れてきたのかもしれない。

 そのことを示す資料の一つが世論調査の数字である。世論調査の数字は、民衆の意識状況を知る決定的な資料ではありえないし、それを過大評価することは危険でさえあるのだが、それが世論の動向を知るうえで、ある程度参考になることも否定できない。

 NKHは、復帰直前から継続的に世論調査を行っている。その調査によれば、復帰直前までは、軍事優先の七二年沖縄返還政策の展開によって、かつての復帰幻想は完全に吹き飛ばされていたにもかかわらず、なおまだそこには“異民族支配からの脱却”へのかすかな期待が残されていたことが示されている。しかし復帰後は、「復帰してよかった」とする者の数字と「よくなかった」とする者の数字が逆転し、復帰への否定的評価が肯定的評価を上回る。そこに、復帰後の急速なヤマト(本土)化への流れのなかで、「こんなはずではなかった」といらだつ民衆の姿が示されているように思える。しかし、このいらだちも、一〇年という年月をかけて積み重ねられた既成事実の前で鎮静化し、一種のあきらめにも似た“慣れ”が表に出てくる。すなわち、復帰一〇年めにしてようやくふたたび復帰に対する肯定的評価が否定的評価を上回り、この傾向は年とともに強まっていく。

 こうした意識状況の変化に先行するかたちで、政治的主導権が革新から保守へと転換し始める。たとえば、かつては県下一〇市の首長のうち八市は革新が占めていたにもかかわらず、七八年の統一地方選挙が終わってみると、保革の比率は六対四と逆転していた。なかでも、沖縄島中部にある基地の街・沖縄市(旧コザ市)で、二○年間続いた革新市政が保守に奪われたことは象徴的であった。革新側が、解雇された基地労働者や変質しつつある軍用地主を自らの側に組織しえなかったことの結果であった。

 そしてこの年十二月、二代目革新知事平良幸市の病気辞任による知事選挙で、自民党の西銘順治(にしめじゅんじ)が革新共闘(社大党=沖縄社会大衆党)の知花英夫(ちばなひでお)を二八万四〇四九票対二五万七九〇二票で敗って当選し、六八年の初の主席公選以来一〇年にわたった革新王国は崩壊した。それはまぎれもなく革新の敗北ではあったが、保守の勝利ではなかった。保守側が革新に代わる積極的政策をかかげて民衆の支持をかちとったわけではないからである。

 沖縄では相変わらず、基地をめぐるトラブルが絶えない。県は、頻発する米兵犯罪、軍事演習による事故等に対応するため、米軍および那覇防衛施設局と基地問題連絡協議会(三者協)を発足させるが、そのことによって犯罪や事故が減るわけではなく、米軍基地の維持が安定しただけであった。また、安保容認県政の誕生は軍用地強制使用の行政手続き等を容易にした。

 沖縄から外に目を転じてみると、一九七〇年代末から八〇年代初めにかけての時期には、韓国の朴正熙(パクチョンヒ)大統領が側近に暗殺され、光州事件が起き、全斗煥(チョンドゥファン)大統領が就任するなかで韓国情勢が大きく揺れ、インドシナ半島ではベトナムのカンボジア侵攻があり、アフガニスタンのクーデターにはソ連が介入した。中東ではイラン革命が起きるが、やがてイラン・イラク戦争が始まり、イスラエルがレバノンに侵入するなど、アラブ、とりわけパレスチナの情勢は暗転し始める。

 日本では、福田内閣、大平内閣、鈴木(善幸)内閣を経て八二年末、中曽根内閣が成立するが、福田内閣末期、当時の栗栖(くりす)統合幕僚会議議長が、有事に効果的に対応するためには超法規的行動が必要であると発言し解任されたことをきっかけに、有事立法問題がクローズアップされた。また八二年夏には、「侵略」を「進出」と書き換えさせるような教科書検定の実態が報道され、アジア諸国、諸地域から大きな反発をあびた。だが、このときの検定では、沖縄戦における日本軍の住民殺害事件も削除対象とされたため、沖縄でも世論が大きく沸いた。それは、ヤマト化の過程をすすみつつあるかにみえる沖縄にも、なお非日本的な、むしろアジアの民衆と共通の歴史的体験が刻印されており、それがときとして鋭く表面化するということを示していた。

 この時期は、わたし自身に即していえば、与那国(よなぐに)から奄美、喜界(きかい)まで琉球弧の島じまを数多く歩き回った時期である。CTSや核燃料再処理工場の立地問題などが、やや大袈裟にいえば琉球弧をおおっていたからである。石垣島で白保(しらほ)公民館を中心に、新空港建設阻止委員会が結成されたのも七八年である。七九年からは、「へだての海を結びの海へ」をスローガンとし、各島回り持ちで年一回開かれる琉球弧住民運動交流合宿も始まった。とりわけ奄美の島じまとのかかわりが深くなり、八二年には、名瀬(なぜ)市で発行されている新聞『南海日日新聞』のコラム「つむぎ随筆」を担当することになった。

 しかし、このころからわたしは、大学の改革再建問題にもっとも多くのエネルギーを割かれるようになり、島めぐりも思うにまかせなくなった。沖縄大学は、世替わりの際の大学統廃合問題をなんとか切り抜けたものの、独自の大学存立の意義を社会に提示することができないままジリ貧状態を続け、七八年夏には、給与の遅配欠配まで始まっていた。どん底からの大学改革再建運動が始まり、わたしもその一翼を担ってはいたが、わたしが大学改革・再建を自ら担い切ろうと覚悟を決めるのは、八〇年九月、副学長を引き受けた段階からである。

 一方、復帰一〇年を新たな節目とする米軍用地強制使用に反対する反戦地主を支援し、新しい反戦・反基地闘争をつくり出すために、わたしたちは、「軍用地を生活と生産の場に!」をスローガンとした一坪反戦地主運動を始めた。

 ところで、一九七五年一月から七七年十二月まで毎月一回『毎日新聞』に掲載されていた「沖縄からの報告」はその後、「78沖縄考」「79沖縄考」「80沖縄考」とタイトルを変えてほぼ隔月で『毎日新聞』に掲載され、八一年からは「琉球弧から」とさらにタイトルを変え、復帰一〇年めの八二年十二月に一応ピリオドを打った。七八年から五年間、三〇回にわたって『毎日新聞』に掲載された文章を中心に、八四年春、凱風社から『沖縄考−−琉球弧の視点から』として出版した。気づいてみると、伊波普猷(いはふゆう)(『沖縄考』)と島尾敏雄(『琉球弧の視点から』)を合わせたようなタイトルになってしまったが、それは『毎日新聞』掲載段階の「沖縄からの報告」「沖縄考」「琉球弧から」というタイトルの変化それ自体が、この間の沖縄の状況とわたし自身の視角の変化を表現していたことの結果でもある。

 本書は、『沖縄考――琉球弧の視点から』を基礎にしている。前著との違いは、前著に入れていた『朝日ジャーナル』の座談会(高良倉吉、平良良昭、崎山律子、新崎盛暉)と『エコノミスト』のインタヴュー記事を削除し、『沖縄タイムス』『南海日日新聞』『新沖縄文学』等、いわば内に向けての発言を収録したことにある。第一巻『世替わりの渦のなかで』についても同じことがいえるが、日本と沖縄(琉球弧)の関係、あるいは日本における沖縄(琉球弧)の位置について考えるためには、沖縄(琉球弧)内部に向けての発言と、外へ向けての発言が整合性を持つことが必要だからである。

一九九二年一月


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