■はじめに

手段としての沖縄返還、目的としての解放・改革

 この本は、『沖縄同時代史』(全一〇巻)の別巻として出される。六〇年代初めから七二年の沖縄返還にいたる約一〇年間に、『世界』(岩波書店)、『現代 の眼』(現代評論社)、『展望』(筑摩書房)、『エコノミスト』(毎日新聞社)などに載せた主な文章を、共同執筆・対談・インタビュー等を除いて、時系列 に沿って収録したものである。

 この本に収録した文章を、改めて読み直してみて感じたことは、それぞれの時代に向き合って書いた文章と、過去を振り返って時代の流れを整理した通史的記 述の間の差異、あるいはそれぞれの独自性である。別の言い方をすれば、あの時代の雰囲気は、あの時代の中で行われた発言をそのまま提示することによってよ りよく伝わるという側面があるのではないのか、ということである。沖縄の日本復帰(返還)後、約三〇年の発言を約一〇年間にわたって継続的に出版した『沖 縄同時代史』の前史にあたる部分をあえて読者に提供する意味があるとすれば、それはそこにあると思う。

 この時期わたしは東京に住んでいた。東京都庁に勤めて生活の糧を得ながら、中野好夫主宰の「沖縄資料センター」で、資料の収集、紹介、研究会の企画など をしていた。沖縄の大学か新聞社で仕事をしたいと思っていたのだが、当時それはほとんど不可能だった。そんなわたしに、「君、沖縄に行かなくても沖縄の勉 強はできるよ」と声をかけてくれたのが、中野好夫先生であった。わたしは沖縄を代弁し、沖縄に問題を投げ返すこと、ことばを変えていえば、沖縄民衆運動の 伴走者としての物書きになることを自分の社会的役割として選択した。自分にその資格と能力があるかを疑いながら。

 そんなわたしを「渦中にいると見えないことが、遠くからはよく見えることがある」と励ましてくれたのが、五〇年代の沖縄の民衆運動を支えた中心的リー ダーの一人で、当時上京してきていた国場幸太郎さんであった。

 この本に収録した文章が書かれた時期は、沖縄戦後史(米軍支配下の沖縄現代史)の時期区分でいえば、第六期から、第九期である。第六期は、米軍による沖 縄支配の本格的破綻が始まった時期である。詳しい時期区分については「沖縄の戦後史――帝国主義的再編と人民の抵抗史」(四一二頁)にゆずるが、五〇年代 中期の「島ぐるみ闘争」への対応策としての政策転換が作り出した束の間の相対的安定期がもろくも崩れ始めたのがこの時期である。

 この本は、占領支配体制の受益者層の代表政党である沖縄自民党の議席が後退した第六回立法院議員選挙結果の分析(一六頁「沖縄総選挙終わる」)から始ま る。対日平和条約の締結期(一九五一年)以降、米軍支配からの脱却をめざす沖縄の民衆運動は、日本(祖国)復帰運動と総称されてきたが、六〇年代の前半期 は、とりわけ自治権獲得・主席公選運動としての特色が強かった。

 一方「島ぐるみ闘争」の衝撃によって沖縄問題の存在を知らされたヤマト(日本本土)でも、復帰運動に呼応するものとして、沖縄返還運動が組織され始め る。だがその中には、復帰運動に対する情緒的理解が色濃く残っており、また、原水爆禁止運動における社共の路線対立が沖縄返還運動にも波及するという状況 があった。

 こうした状況を踏まえて、日本復帰(沖縄返還)は、沖縄解放と日本変革の手段であって目的ではない、ということを提起しようとしたのが、「転機に立つ祖 国復帰運動――沖縄問題の現段階」(三六頁)である。それは、日米同盟を基軸とする戦後日本の政治が、アメリカによる沖縄の分離支配を不可欠の要素として いるという時代を背景にして成り立つ。

 六四年に書いた二つのルポ「一二回目の『屈辱の日』」(七〇頁)・「占領下の伊江島」(八六頁)は、ペンネームを使って発表された。話を聞いた人たちの 固有名詞もできるだけ伏せている。当時、東京から沖縄に渡航するためには、都庁に英文の渡航申請書を出し、それが琉球列島米国民政府に送られ、その許可を 得てはじめて、身分証明書(パスポート)が発給されることになっていた。私の渡航理由は、「墓参及び親戚訪問」となっていた。このため米民政府公安部に呼 び出され、「渡航目的と行動が一致しない」と尋問されたこともある。普通なら一、二週間で出されるはずの身分証明書の発行に二か月ほどかかったこともあ る。六〇年代前半は、まだそんな時代だった。

 六五年の北爆♀J始によるアメリカの南ベトナム内戦への全面介入は、再び沖縄(問題)の存在をクローズアップした。ベトナム戦争の軍事的拠点であるこ とを明確にした沖縄が日米安保体制に占める位置も具体的に明らかになりつつあった。沖縄における闘いは、自治権獲得に加えて、反戦闘争としての色彩を強 め、やがて運動の内実を表現する言葉として「反戦復帰」という言葉が多用されるようになってくる。

 一方、日米両政府にとっても、同盟国であるアメリカが、日本の領土と人民を支配し続けることが、同盟の維持強化の上で桎梏となり始めていた。佐藤(栄 作)政権は、残された最大の戦後処理として、沖縄問題に積極的アプローチを示すようになった。佐藤訪沖から教育権分離返還論にいたる過程は、その試行錯誤 の過程といえよう。その間も沖縄民衆の闘いは、前進し続けた。そして、教公二法阻止闘争は、アメリカの排他的沖縄支配が持続不可能であることを示した。

 六七年になると日米両政府は、アメリカのベトナム政策の破綻、日米の政治的経済的力関係の相対的変化、対沖縄政策の破綻を受けて、日米の役割分担再調整 の一環としての沖縄返還に取り組むことになる。いいかえれば、日米同盟再編強化のための協議が、沖縄返還交渉という名目の下にすすめられることになった。 それは、六〇年に改訂された安保条約の固定期限が切れる七〇年をにらんでの動きでもあった。

 「沖縄返還」は、いまや日米両政府の政策課題になった。それにともなって、「沖縄返還」のあり様をめぐるさまざまな論議が噴出した。だが、現実の沖縄 返還交渉≠ヘ、「沖縄返還」のあり様に関する協議ではなく、沖縄基地の軍事的機能の維持強化、在日米軍基地のより自由な使用、自衛隊の沖縄配備、アメリカ の反共国家に対する経済支援の日本による肩代わり、日本のベトナム戦争支持などを内容とする包括的な日米の役割分担に関する協議であった。

 六〇年代も終わりに近くなると、沖縄返還が日米両政府の既定方針化し、アメリカの沖縄支配のたがも弛んでくる。五〇年代から何回も沖縄渡航を拒否されて きた中野先生も、渡航できるようになった。ジャーナリズムにも、沖縄のさまざまな立場の人たちの見解が反映されるようになった。沖縄の民衆運動がもっとも 伸びやかに展開されたのも、この時期だったといえよう。沖縄返還交渉の前に立ちふさがったのは、こうした沖縄民衆の闘いであった。それはやがて、B52撤 去と原潜寄港阻止を掲げた政治ゼネストへと登りつめていく。

 しかし、六九年二月四日に実施されるはずの二・四ゼネストは、幻に終わった。なぜか。

 詳しくは、「沖縄は反安保の砦」(三四〇頁)などをお読みいただくとして、ひと言でいえば、この段階においてもなお、沖縄返還が手段であって目的ではな いということが明確には認識されていなかったこと、いいかえれば、沖縄返還それ自体が自己目的化されていたことにあるといえよう。他方、すでにこの時期、 沖縄返還運動(祖国復帰運動)を超える闘いが自らを表現する言葉として、「沖縄闘争」という言葉が使われ、市民権を得つつあった。

 二・四ゼネストの挫折後も、佐藤訪米阻止闘争、沖縄返還協定粉砕ゼネストと、沖縄闘争は続いていくが、日本全体としてみれば、返還協定を審議する「沖縄 国会」の論議の焦点は何か、といった方向へすすみつつあった。

 これに関するわたしの立場は、「沖縄返還協定を受け入れるか否かの決定権は、沖縄の住民投票に委ねよ」というものであった。しかし当時は、人民自身に自 己決定権を与えよ、という主張は、少数異端の主張に過ぎなかった。沖縄で、自己決定権の行使としての住民投票が実現したのは、実にそれから四半世紀が過ぎ た、九七年の名護市民投票によってであった(意思表明としての住民投票は九六年の県民投票である)。だが、市民投票を実施した市長自身が、市民投票に法的 拘束力は無い、として、市民の意思を無視したため、市民の自己決定権は奪われてしまった。

 だがこのことが、その後の粘り強い新基地建設反対闘争を支えているともいえる。その意味でいえば、平和を求め、自治(自己決定権の獲得)をめざす沖縄闘 争は、いまなお続いているといえよう。

 この別巻には、一九五七年生まれの沖縄近現代思想史研究者・屋嘉比収氏が、「解説」を書いてくれることになった。屋嘉比氏は、一九七二年、沖縄返還の年 に高校に入学したという。わたしが都立高校に入学したのは、対日平和条約が発効した一九五二年であった。条約発効の四月二十八日、校長は、全校生徒教職員 を校庭に集め、「今日、日本はめでたく独立しました。万歳を三唱しましょう」といった。沖縄が米軍支配下におかれ続けることが確定するこの日、万歳を三唱 する教師や学友。この日は、国民学校三年のとき敗戦を迎え、愛国少年の尻尾をつけたまま戦後民主主義の時代を生きてきたわたしが、「日本にとって沖縄とは 何なのか」という問いに、正面切って向い合わざるを得なくなった最初の日となった。二〇年の時差を経て、同じ年代で「世替わりの日」を迎えた屋嘉比氏が、 どのような視角からわたしの文章を読んでくれるのか、楽しみである。



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