二〇〇四年のNHK大河ドラマは三谷幸喜脚本による『新選組』だった。主役の近藤勇役に人気の香取慎吾を起用するなど、三谷の手腕は冴え渡り、ストー
リーも若者受けを狙って大胆に脚色されている。史実をトレースするものではなかったとはいえ、まずまず、好評を博したことはめでたいことである。ふつう、
大河ドラマともなれば県を挙げてのお祭り騒ぎになるものなのであるが、今回、東京都は一切何もしてはいない。近藤勇のふるさと・調布と土方歳三のふるさと
日野が、競うように町おこしを狙ったに過ぎない。多摩という地方は統一した行政単位をなしていないので、個々の自治体がばらばらに取り組むほかはないので
ある。東京都は多摩全体の問題に関心など持ってはいない。
ドラマのおかげで「多摩」という地名の存在が広く知られるようになった。一年を通して「多摩の百姓」という言葉が何度も繰り返されたからである。かつ
て、日本最大の面積と結束力を誇った多摩郡、武蔵の国の中心であった多摩も、人々の意識の中で地盤沈下を起こし、忘れ去られようとしていたといっていい。
分割されて三多摩になってからも、調布市を含む北多摩郡、日野市を含む南多摩郡は全域が市制化されて姿を消し、西多摩郡にわずかな町村を残すだけとなって
しまった。多摩という地名は、多摩川と多摩丘陵を除けば、南多摩に位置する多摩市と多摩ニュータウン、多摩都市モノレールといった、やや規模の小さいもの
を示す地名になろうとしていたのである。ドラマは多摩に暮らすひとたちの間にも「多摩って、どこ。どこまでが多摩」といった疑問を投げかけることになっ
た。
一方、三谷は従来からある新選組の「立身出世願望」説をそのまま踏襲し、近藤勇に「いつか武士になりたい」という台詞を繰り返させ、多摩=百姓、百姓=
武士への憧れ、を強調してしまった。だが、多摩にはそんな憧れが芽生える余地はなかったし、多摩の百姓はまた耕作を専務とする純粋な農民ではなかった。つ
まり、三谷の脚本は史実を脚色しただけではなく、多摩という土地の実像をも歪めたことになる。もっともこれは、三谷の責に帰すものではなく、従来の説(紋
切り型の物語)が負うべき責任である。また、多摩自身も、新選組を紋切り型の物語に押し込めることで、多摩が持つ歴史の固有性、闘う百姓の実像を消し去ろ
うとしてきた。多摩の歴史への裏切りなのである。ドラマを機に繰り広げられた調布、日野の町おこしも、その上塗りの域を出なかった。
多摩は元来、闘う百姓の郷、もののふの郷である。ふだんは鍬を握り、他国に侵されようとするときは一致して剣に持ち替えた。しかも多摩は、中心地もリー
ダーも持たずに、ネットワークとしてこの団結を維持した。日本の歴史の中でもきわめて貴重な自主と自治の郷なのである。
幕末、多摩の百姓の固有の歴史が再び目覚めた。欧米の脅威に対する自衛意識と、その能力の存在確認と限界確認。そうしたものを通して、多摩はこの国の未
来像を引き寄せることになる。自らが主人公であるという自信、それが多摩の幕末維新を染め上げた。新選組とは、そうした流れの中で産み落とされた確かな傍
流に他ならない。本流は維新後もとうとうと流れ続け、自由民権運動へと受け継がれる。神奈川壮士、三多摩壮士である。
自主と自治、自由と民権、この先に多摩が夢見たものは共和政体、共和国であろう。中心地もなくリーダーもない。中央集権とは正反対のネットワークであ
る。多くの人々が対等にひざ突き合わせて議論をし、統一した方針を導き出す。民主主義のこのプロセスを、多摩は歴史的に得意としてきた。本書はそれを明ら
かにすることで、三谷とは異なる新選組像を提供する。と同時に、日本があのとき、天皇を奉じる薩長絶対主義政権に屈するのではなく、別な道があったのだと
いうことを示しておきたい。武蔵府中が置かれ、確かに多摩も一時、中央の支配に屈した。が、その期間はわずかである。平将門の残党や、南朝の残党を受け入
れた多摩に、中央政府は指一本触れることができなかった。全国統一を果たしたといわれる豊臣秀吉も、多摩を支配できてはいない。
明治になって、多摩は初めて他国に支配された。それを跳ね除けようと、闘いは続いたが、薩長新政権の、百姓たちの暮らしを省みない暴虐ぶりは、そうした
暮らしを大事にしてきた多摩人たちの想像を絶するものだった。多摩は行政区分上でずたずたにされ、貴重な一体感を奪われてしまう。郷土の誇りである新選組
でさえ、薩長政権に配慮して、一般受けする「立身出世」物語に押し込めてきたのである。だが、そんなものは嘘っぱちである。多摩の歴史的伝統は薩長絶対主
義政権を認めてはいない。本書はそれを具体的に明らかにすることを主眼とする。多摩はなお、侵略に対する地域の砦であってほしいと願うからである。
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