まえがき

 一九九〇年代以降、個人情報保護に関する関心が高まる中で、「個人情報の保護に関する法律」(個人情報保護法)が、二〇〇五年四月に全面的に施行され た。この背景には、松本サリン事件などによってメディアによる報道被害の実態が明らかになり、市民によるメディア不信が強まる一方で、そうした世論状況を 利用してメディアへの介入を強めようとする権力側の思惑も隠されていた。

 権力とメディアの一体化を問題視する作家の辺見庸氏は、そのことを「マスメディアへの冷たいまなざしは、もちろん理由なしとしないわけで、たとえば特異 な刑事犯罪のときの雪崩のような取材方式は一向に改まる姿勢がない」とメディアの姿勢を批判しつつ、「個人情報保護法は、……有事対応や国家の情報統制機 能の拡大などと絡めて、より広い視点から実相を捉え直していく必要がありますね」と国家の本質的狙いを鋭く指摘している(『単独発言――私はブッシュの敵 である』角川文庫より)。

 個人情報保護法の成立以降、これまで放置されがちであったメディアの集団的過熱取材(=メディア・スクラム)による被害者家族などに対する人権侵害・報 道被害が表面上改善されつつある一方で、メディアによる権力の監視機能が弱まり、個人情報の過度の保護・非公開による地域社会におけるコミュニケーション の阻害などの新しい問題も生じている。

 例えば、大事故の際に病院が肉親を気づかう家族からの安否確認に対して個人情報保護をタテに応じないところや、教育の現場で父母会の名簿や電話連絡網の 作成、配布を限定するところなどが出ている、との具体的事例の指摘もある(梓澤和幸『報道被害』岩波新書より)。

 これとの関連で、個人のプライバシー保護と国民の知る権利の保障とのバランスが問われる匿名発表および匿名報道をめぐる問題が注目を集めている。これま で報道の正確性の向上や公権力の監視を行うためには、メディアなどがある事象(事件・事故など)を報道する際、関係者や情報提供者の実名、あるいは関係す る団体名を明示する実名報道が必要不可欠なものと考えられてきた。その一方で、実名報道は報道被害につながるとの懸念もあり、特に犯罪被害者については匿 名での報道を求める声がしだいに強くなっている。

 そして、こうした世論状況の変化を背景にして、政府・自治体など行政当局側から実名報道を制限しようとする動きが生まれており、それが特に警察当局の一 方的判断による被害者・加害者情報の匿名発表という形で出てきている。これに対して、警察による匿名発表やそれに従うマスコミの匿名報道は、著名人や地位 のある人々のスキャンダル隠しなどに利用され、結局、無責任を助長して社会の制裁機能を奪うことになるという根強い批判も出されている。

 また、近年、警察・検察による人権を無視した違法な捜査とそれに追随するマスコミの犯人視報道によって無実の人々・一般市民が大きな人権侵害を受ける、 いわゆる冤罪事件が相次いで表面化している。こうした冤罪事件は、市民の人権を守る最後の砦であるはずの司法(警察・検察・裁判所、特に裁判所)が今日ま ともに機能していないことを示している。と同時に、それは本来、権力の暴走を監視・抑止することを本来の使命としているはずのメディアが、権力と一体化し てその役割を放棄していることを意味している。すなわち、メディアが権力の行う「情報操作」(とりわけ、警察による裏情報のリーク)に乗るという形で権力 と一体化することが冤罪を生む一つの構図となっているのである。

 人権と報道の問題に取り組んできたフリージャーナリストの山口正紀氏は、そうした構図を生む原因について、二〇〇五年七月四日のシンポジウム「おかしい ぞ!警察・検察・裁判所U メディアはなぜ追及できないのか」で、「やっぱり、警察を監視する対象として見るのか、それとも情報をもらう対象でしかないの か、という根本的な問題が横たわっている気がします」とズバリと指摘している(魚住昭、斎藤貴男、大谷昭宏、三井環『おかしいぞ!警察・検察・裁判所―― 市民社会の自由が危ない』創出版より)。

 政府によるメディア規制の強化、匿名社会・監視社会の進行、権力とメディアの一体化、といった日本社会の現状は、まさに情報化社会の落とし穴・危険性を 物語っている。ここで問われているのは、個人のプライバシー保護と国民の知る権利の保障とのバランスばかりでなく、人権保障と民主主義という社会全体の根 本的なあり方であるといえよう。

 そして最近になって、こうした状況に市民がどのように対処すべきか、という文脈で「メディア・リテラシー」という言葉が登場してきている。この言葉は、 「読者・視聴者である市民が、メディアを通じて流されるニュースや情報を、誰がどのような意図でつくっているのかなどを理解した上で主体的に判断・評価す る能力」を指しており、権力による真相の隠と神話の捏造という「情報操作」とは表裏一体の関係にある。新聞やテレビで流されるニュースや情報が常に正し いとは限らない、特に警察の裏情報には嘘や歪曲・誇張がつきものであることは、これまでに起きている冤罪事件と犯罪報道のあり方を見れば明らかであろう。

 そこで、本書では、「メディアは市民を守ることができるのか」というテーマを設定して、前半部分(第一部の講演録と第二部の公開シンポジウムの記録)で は松本サリン事件の冤罪と報道被害の二重の被害者であった河野義行氏の体験談を軸にして、個人情報保護と国民の知る権利との関係や、実名報道主義と匿名報 道主義の是非などを中心に論じる。また、後半部分(第三部の冤罪と報道被害の構図)では、冤罪事件と報道被害、あるいは情報操作とメディア・リテラシーの あり方を中心に、新たに志布志事件を題材に加えて分析・考察する。

 そして、本書全体を通じて、冤罪を生んだ捜査当局の実態と報道被害をもたらしたメディア、またそれに加担することになった市民といった構造を明らかにす ると同時に、こうした冤罪・報道被害の再発を防ぐための方策について、特にメディアのあるべき姿を中心に考察・提起することにしたい。それはまた、メディ ア・リテラシー、すなわち報道・情報の受け手である市民一人ひとりの情報を読みとる姿勢・能力を問うことにもなろう。

木村 朗