■解説

「こころの被爆者」への道

 長崎に生まれてものを書く人間は、原爆と無縁ではいられないのかもしれません。

 幼い頃から原爆や平和に関するニュースを耳にしながら育ち、平和活動の片隅に加わるようになってからも、「いつか原爆のマンガを描きたい」という思いは 私の中から離れることはありませんでした。

 しかし、証言集のページをめくるごとに指は凍りつくばかりでした。「想像を絶する」「とても口では言い表せない」地獄にたたきこまれた人々の叫びや死 臭。それをどうやったら描けるというのだろう。そして、なぜ人間が人間の上に原爆を落とせるのか。横たわる哲学的な問いの答えを見出せないまま迷走が続き ました。

 原爆投下を容認するかのような風潮の中で、作品の糸口を探して焦っていたとき、一つの出来事が起こりました。二〇〇六年七月三十日のことです。その日、 イスラエル軍がレバノン南部の町カナを空爆し、子どもを含む五十七人が犠牲になりました。「カナの空爆」です。

 数日後、空爆に心を痛めた人々が集い、被爆者の男性がマイクを握って訴えました。「もうすぐ八月九日がやってきます。原爆の惨禍を経験した私たちは、罪 のない子どもたちが同じように殺されていく戦争を許すことはできません」。はっとしました。戦火の町とナガサキは苦しみでつながっている。外からの視点で 描く方法だってある、と。

 原爆落下中心碑の前で手を合わせてつぶやきました。「描いてもいいですか? 描かせていただけますか?」。被爆当時の惨状は想像でしか描けない。私に描 けるとしたら、現在にあって、被爆の事実に立ちすくんだり、受け止められなくて苦悩する人々の姿しかない。長編にいくつものテーマを盛り込むよりも、一作 品に一テーマを入れて短編を描こう──。

 原爆とはきっと、おそろしく巨大な多面体なのだと思います。かかわった人の数だけ物語があり、死者たちの生きた証を、生きている私たちが一つ一つなぞっ ていくことによって、原爆はその全貌を現すのかもしれません。この日を心に刻もうと、主人公の名前は「カナ」と名付けました。

 この本に収録されている五話はすべて、事実をもとにしたフィクションです。

◆「ラスト・レター」 郵便配達員だった男性にはモデルがいます。その方が被爆以後の話よりも、赤い自転車で配達に回った被爆前の美しい町並みや人々の暮 らしをいきいきと語ってくれたとき、私は今さらのように気づいたのです。「その瞬間」まで、今と同じように人々がささやかな日常を生きていたのだと。一九 四五(昭和二十)年以来、戦争で一度も核兵器が使用されていない事実に目を向けるとき、私はおこがましいと知りつつも、中心碑の前でこうつぶやかずにはい られません――「あなた方の死は無駄ではありませんでした。決して、無駄ではありませんでした」と。

◆「肖像画」 原爆製造の過程を描くには、まずドイツから始めなければと思いました。連綿と続いてきた戦争の狂気が核時代の扉を開けてしまった結果、地球 上にはいまだ二万七千発の核爆弾があるといわれます。二〇〇七年八月九日の長崎は、全国から集う人々の熱気と鎮魂の祈りに包まれていました。十一時二分。 鐘の音に人々は頭を垂れ、蝉時雨さえ途切れる静寂に生者と死者が同居する。死者とつながりを持とうとする営みの中でこそ、死者たちは生者に道を示すものな のかもしれません。おごそかにのびる「もうひとつの道」を。

◆「マンハッタン・サンセット」 二〇〇七年八月、アメリカの政府高官が「原爆は百万人の米兵の命を救った」と発言しました。第三話はこの「原爆神話」を テーマにした物語です。科学者たちですら戦慄した、原爆のまがまがしさを描きたくて。オッペンハイマー博士の言葉「物理学者は罪を知った」の意味をずっと 考えていました。罪とは何だろう。「物理学の計算に命の重さを入れるのを忘れていたのではなかった」ことだろうか。原爆と対峙することは、人間の有りよう を考えることとつくづく無縁ではいられません。オッペンハイマー博士は来崎していないので、瓦礫の中に立つ場面はイメージなのですが、アメリカでオッペン ハイマー研究をしている女性はこう語っていました――「彼の心はいつも、廃墟に立っていたと思います」。

◆「夏の残像」 作中に出てくる「冷凍保存装置」はもちろん現実には存在しません。アメリカが原爆投下後、後障害に苦しむ被爆者の治療も行わず、病状の データや細胞のサンプルを取り続けたという事実をもとに、これが究極の形まで進んだら……と想像を膨らませた物語です。今日に至るまで、爆死者の正確な数 はわかっていません。個々の生活や夢を絶たれ、人間らしく死ぬことも許されなかった人々。この本の主人公はカナであると同時に、今も置き去りにされた「夏 の残像たち」なのです。収録された五話はすべて、死者たちの台詞で終わっています。残像たちの声に耳を澄ませ、現代に甦らせることが、私にできる彼らへの 「紙碑」だと思いました。

◆「アジアン・リバー」 かつて日本は朝鮮半島を植民地化し、そのために朝鮮の人々は、連れてこられた長崎や広島で被爆しました。二重三重の苦しみを受け させられた朝鮮人被爆者を避けて原爆を描くことはできないと思ったのです。日本と朝鮮半島の間に、越えなければいけない河は厳として横たわっています。し かしそれが永遠の断絶ではないと思えるのは、韓国の本屋のマンガコーナーを見たからです。そこには韓国人マンガ家の作品と日本人マンガ家の作品が混ざり 合って並んでおり、韓国の子どもたちが当たり前のように本を買っていく。その光景に私は未来を見る思いがしました。この本もまた河に浮かぶ小さな舟となれ たら、幸せです。

◆エピローグ 今、長崎ではたくさんの高校生たちが核兵器廃絶を求めて活動しています。原爆落下中心碑の前に立つ高校生たちの輪にカナが飛び込んでいくラ ストに、私はありったけの願いをこめました。かつて絶望の象徴だったその場所が、希望の象徴となってほしい――そんな願いを。

 それでも原爆の上澄みの上澄みしか描けなかった、という思いはぬぐえません。何よりも、「これを描かなければ長崎原爆を描いたことにはならない」という ものが描けませんでした。それは、「浦上燔祭説(うらかみはんさいせつ)」と呼ばれるものです。
 *燔祭=古代ユダヤ教で、供えられた動物を祭壇で焼いて神に捧げたこと(『広辞苑』岩波書店)

 長崎原爆は、古くからキリスト教徒の多く住む浦上の上空で炸裂しました。当時、長崎医科大学の医師でカトリック信徒でもあった故・永井隆博士は、合同葬 弔辞の中でこう読み上げました――「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝を捧げねばならぬ」。この思想が出て きた背景には、旧市街地の人々によって歴史的に続いてきた浦上切支丹への侮蔑がありました。「原爆は天罰だ」という心ない俗説に傷ついていた浦上の人々 は、この弔辞によって胸のつかえがおりるように感激したといいます。しかし「敵を許し、原爆を犠牲として受け止める」という思想が「原爆を落とした者の責 任」を免除するものとして脚光を浴びたとき、被爆者は沈黙を余儀なくされ、「祈りのナガサキ」のイメージだけが定着していきました。

 今回、まだ私の中で、「浦上燔祭説」を描くところまで考えを深めることができませんでした。「祈りのナガサキ」も大切な意味を持っていると思います。で もあれだけの原爆地獄を「祈り」という言葉でイメージづけてはいけない気がして、マンガの中ではあえて「祈り」という言葉は使いませんでした。いつか向き 合わねばならない、大きな宿題です。

 「アジアン・リバー」に出てくる木村医師のモデルは、被爆直後から敢然と治療にあたられた、故・秋月辰一郎(あきづきたついちろう)先生です。反核証言 運動の中で先生は「小異は残して大同につこう。組織や考え方の違いを超えて集まろう」と呼びかけました。「長崎方式」と呼ばれるこの方式は、現在に至るま で「ながさき平和大集会」などで受け継がれています。私もこの本で「長崎方式」を継承してみました。死者も生者も、長崎のみんなを大集合させよう。創造と 現実のコラボレーション。時間も空間も超えてみんなをつなげたかったのです。

 私にとって処女作となる『夏の残像』を産み出す陣痛は正直苦しかったけれど、ここまでたどり着けたのは、多くの被爆者、平和運動家の方々の励ましや、 きっと共に苦しんでいたに違いない「夏の残像たち」の助けがあったからこそだと、今、改めて思います。この本は、平和を願うナガサキの人々との合作なので す。

 「原爆は人間に何をしたのか。そして人間は原爆に対して何をなすのか」。被爆者や平和活動家の方々が苦しみぬいて拓いてこられた道を、私はずっと後ろか ら歩いています。故・鎌田定夫先生(長崎平和研究所創立者)がそうであったように、聞いた被爆体験を自らの心に沈殿させ、共感する人を「こころの被爆者」 と呼ぶのだと聞きました。私は「こころの被爆者への道」を一歩踏み出したにすぎません。そしてこのナガサキで私は、これからもその道を踏みしめていきたい と思うのです。

 それは、かけがえのない命を慈しむ道でもあるのですから。

 二〇〇七年師走の長崎で
 西岡由香



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