■あとがき


 オリンピック開催の決定を喜ぶ北京市民の表情をテレビで見ながら、『紫禁城散策いろいろ事始め』を上梓して六年の歳月がたちました。この間の北京の変化 には目を見張るものがあります。今は時々訪れるだけですが、北京在住の友人達から聞く話は驚くことばかりです。「ひと月北京を留守にすると街並みががらり と変わってしまう」に始まり、「伝統の四合院や胡同が次々に壊されていく」「スモッグがひどく青空がほとんど見えない」「車が増え交通が大渋滞の毎日」な どなど。一方で「地下鉄の路線網が充実して自転車が減った」「高速道のネットが完成して空港や郊外まであっという間に着いてしまう」ともいいます。幹線道 路は拡幅されて両側には何列もの街路樹が植えられました。道路脇には色とりどりの花が寄せ植えで飾られ、街中の緑は確実にふえています。

 中華民国十年(一九二二年)に北京を訪れた芥川龍之介は、その感想を次のように葉書に書き送っています。「甍の黄色い紫禁城を繞った合歓や槐の大森林 ――誰だ、この森林を都会だなどと言うのは?」。緑があふれていたかつての北京。現在の都市計画は、その再現をめざしているのでしょうか。

 荒れ放題だった遺跡や史跡にも保護と整備の手が加えられるようになってきました。北京を取り囲んだ旧外城の正門永定門は二〇〇六年に復元されました。天 安門広場の南側にある正陽門の甕城(門を囲う防御の壁)も復元する計画が持ち上がっているといいます。北京の街中には、超現代的な高層ビル群と歴史の顔が 交差するようになりました。

 夫の勤務にともなって北京で二回暮らしました。故宮に友人を案内するたびにわいた疑問やなぞ調べから始まった「故宮散策」。故宮を一棟一棟の建物の点で はなく、正面の天安門から後方の神武門まで「一続きの俯瞰図」として描いてみました。故宮のドラマは膨大な史料の山に埋もれていますが、その中から興味の あるエピソードを選び、挿絵を添えました。

 故宮では、宮殿の屋根飾りから玉座のまわりにある架空の動物まで、すべてが人間の願望を象徴しています。宮殿の柱の数、門の数にもそれぞれ重要な意味が 込められて設計されているのです。床のレンガ、木材、壁や柱の塗料にも、それぞれきちんとした来歴があります。調度品の一つひとつにも皇帝や内廷の女性、 宦官がくりひろげたドラマと伝説が色濃く反映されています。

 展示されている文物(美術工芸品)は、大陸本土だけはなく、陸路や海路を通して遠く中央アジア、中近東、ヨーロッパとの交流を背景に完成度を高めた中国 五千年の文化の結晶です。その精髄は日本にも伝来し、影響をあたえてきました。こうした東西交流に思いをはせることも故宮散策の楽しみのひとつでしょう。

 故宮の参観は、旅程の都合で半日以下になってしまうことがあります。広大な故宮を楽しむには何に関心があるのか、何を見たいかを決めておくと、充実した 時間を過ごせるでしょう。

中国の大型連休は、春節(旧正月)、労働節(五月一日)、国慶節(十月一日)の前後です。この時期は中国も大移動のシーズンです。故宮も地方からの客であ ふれますので、時間の余裕が必要です。

 北京オリンピック開催にむけて、故宮の内部も変わりました。第一に見せる工夫がされています。これまで陶磁器などの展示はジャンル別に分類しただけの歴 史要覧風の単調なものでしたが、身近な品を手がかりにその時代をトータルに感じさせる、楽しい展示になりました。

 参観者へのサービスもようやく整ってきました。各宮殿にエアコンがつき、照明も見やすく工夫されています。トイレは鍵のかかる個室になりいつも係員が清 掃しています。広い敷地のところどころにはベンチも置かれ、一息つけるようになりました。華僑が寄付をしたと書いてあります。各宮殿の案内板は大きく見や すくなり、路線図の掲示もわかりやすくなりました。下面にはスポンサーのアメリカの企業名が書きこまれています。ある日の北京の新聞には、主要な宮殿の前 に英文の説明板が堂々とあり、写真を撮ると必ず写ってしまうのはいかがなものかと、故宮の対応を問う大学教授の投稿コラムが載っていました。

 その背景には、二〇〇七年春に故宮内のコーヒー店をめぐって起きた、まさにホットな論争があったのです。経緯はこうでした。スターバックス(本社シアト ル)が故宮からの要請で二〇〇〇年から内廷前のブックショップの一角、二坪ほどのスペースで営業していました。ところが、アメリカ文化の象徴ともいえる コーヒーショップが故宮にあるのは中国文化への侵食そのものではないか、というブログが登場したのです。賛否両論がさまざまに交わされましたが、結局、店 は七月に撤退しました。国際化と伝統文化の調和といっても、スンナリといかない中国の事情を示す象徴的なできごとでした。

 各宮殿の大補修は大詰めを迎えています。風雨にさらされる建物は傷みが早く、瑠璃色の屋根には雑草も茂ります。大和殿の広場に敷いたレンガは数年で摩滅 してでこぼこになります。御花園の地面に玉石を並べて描かれた絵は観光客に踏まれて形が崩れ、係の人たちがはいつくばって復元作業をしていました。休む暇 なく、修復と補修が続くようです。故宮は世界文化遺産として人類全体にとってかけがえのない価値をもっています。国家のメンツもあるでしょうが、宮殿の脇 に「この宮殿の修復に寄付をどうぞ」と書いたドネーションの箱を置き、見学に訪れる世界中の人々が気軽に寄付ができるようになれば、故宮はもっと身近にな ることでしょう。

 故宮の中では展示場所の移動や新たな開放宮殿がお目見えするなど、新しい情報が必要になりました。北京城の生い立ちや城壁と城門についての加筆もいれた 『故宮散策』として、新たに改定版を出しました。(以下略)

  二〇〇八年一月    竹田知代


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