昨年の夏、韓国を訪問したとき、ソウルやプサンといった大都市部ではかつてのような儒教思想にもとづく父系先祖祭祀の原則が大きく揺らぎだして、土葬か
ら火葬へと遺体処理の方式が急速に置き換わっている実状をつぶさに見聞できた。公営・民営の区別を問わず、大型の墓苑はどこも巨大な納骨施設をそなえ、基
本的に夫婦でワンセットのロッカー式収納スペースに、陶製の骨壺が整然と安置されている。なかには、昨年初めに自殺して話題となった若手女優の遺骨を受け
入れて、若者世代に向けて火葬をアピールする施設も出現していた。
「身体髪膚これを父母に受く」と言い、親から受けた肉身を焼いて灰にするなどは不孝の最たるものであったはずなのだが、都市化が極端に進行した韓国社会
では、もはやそれを顧みる余裕も失われ、行政が率先して火葬化の音頭取りをするようになったのである。
そしてもうひとつ驚いたのは、そうした葬法の変化を加速するかのように、ほとんどの施設で樹木葬を積極的に採用し始めていることだった。
知られるように、日本では岩手県の一寺院が里山保全の目的も掲げて樹木葬を実施し、それが好評裏に迎えられると、陸続としてそれを追う寺院があらわれ、
また近年は自治体の墓苑にも樹木葬スペースがもうけられるようになった。
九〇年代以来の「人と自然との共生」を謳う環境ブームの流れに乗って、樹木葬では「死者と自然との共生」が高らかに謳いあげられていると言っていいだろ
う。そしてその影響は、海を越えて韓国社会にも一気に及ぶことになった。
なつかしい故人の面影を樹木や草花をよすがとして偲ぶ――、そんな現代人の心情において、日本人と韓国人のあいだに何の相違もない。そんなふうに感じ
入ってしまったものだ。
ところが、昨年夏の段階でいちはやく樹木葬を実施していた江華島の伝燈寺を訪ねてみると、韓国の樹木葬が日本のそれとは大いにちがっている点を垣間見る
ことになった。
その一。韓国では遺灰を埋めるときに樹木も植えるというのではなく、すでに大きく育っている樹木の根元に遺灰を納めるだけで、植樹の行為はともなわな
い。
その二。根元に遺灰を埋めた樹木(伝燈寺ではマツとサワラが主であった)には、幹に銅製のプレートが打ち付けられて、プレートには故人の姓名が彫り込ま
れる。
この二点の相違は、日本と韓国との樹木葬が、その名称や形式の類似にもかかわらず、その背景をなす死生観や人間観において、かなりの懸隔をもっているこ
とをしめしているようである。
前者の相違にかんして言うと、韓国の人たちは、たとえ樹木葬をしたからといって、故人が死後樹木になって生きつづけるとは考えないのだそうだ。日本の樹
木葬が、草花や樹木になって生きつづける死者のイメージを前面に押し出しているのとは、大きく異なるようである。
次に後者の点。日本の樹木葬では、樹木に故人の名を記すということはいっさいしないし、遺骨を埋めた墓域を表示するための標識も目立たない木片にすぎ
ず、死者の固有名は消される傾向にある。韓国ではその反対に、死者の固有名こそがいちばん前面に出ていて、樹木は墓石の代用、肝心なのはそこに銅版で彫り
刻まれた墓碑名であるかのようなのだ。
これはほんの一つのエピソードにすぎないのだが、ことほどさように、異文化間の相違というものは生半可ではない。韓国で樹木葬が盛んになり、中国ではも
う以前から長江での散骨が一般化しているというふうに、自然葬を通じた東アジアの交流や連携が視野に入ってきたとはいえ、表面だけを比べて一喜一憂する愚
は避けなければならないだろう。ましてや、欧米社会の自然葬の潮流に摺り寄ったり過大評価したりするのも禁物だろう。
表面的な一致にだけ気をとられて、その背後にひそむ文化伝統や宗教教義を軽視/無視するのは、大いに危ういということなのである。
さて、本書は当初、「世界の宗教に自然葬≠フ源流を探る」という目的をかかげて企画された。その趣旨は、あらまし次のようなことであった。
死者をどのように葬り、死後の世界をどのように説明するかということは、古来、宗教の大きな役割のひとつであった。土葬や火葬という死体処理の方法から
始まって、どのような墓をつくり、どのような死者儀礼を実行するか、世界の宗教はそれぞれの救済論、霊魂観念・死後観念の相違に応じて、じつに多様であ
る。また一方、現代世界を強引に巻き込んでいるグローバル化の嵐が、それぞれの宗教に特有の葬法や死生観を大きく変えつつあることも間違いない。
では、そのような世界の宗教の多様な教義と歴史から見て、はたして自然葬は個々の宗教の差異を越えて何らかの普遍性をもちうるのか。そしてまた、現代と
いう大きな時代の変わり目にあって、それぞれの宗教はどのようにして、またどの程度まで自然葬という考えを許容し、実行できるのか。
おおよそそんな問題関心から、世界の宗教に自然葬≠フ源流を探ろうとする試みが始まったのである。
もちろん、その源流≠ェはっきりと見出せる宗教もあれば、それが非常に困難な宗教もある。そのことは、本書に寄せられた各章から即座に読みとれるはず
である。
が、何よりも大切なことは、それら諸宗教のあいだの教義上の共通性や差異を既定の事実として学ぶというのではなく、その背景にある人間観や自然観、さら
には死後世界のイメージにまで踏み込んで、それぞれの宗教の奥行きを身をもって受けとめることではないだろうか。
本書の各章が、そのための良質のガイドブックになっていることは、編集にたずさわったものとして大いに自負できるところであり、それぞれに論考を寄せら
れた執筆者各位に感謝したい。(以下略)
二〇〇八年二月 編 者 中村生雄 |