本書『〈スィンティ女性三代記(下)〉スィンティ女性三代記(上)を読み解く』は、『〈スィンティ女性三代記(上)〉私たちはこの世に存在すべきではなかった』(以下、上巻)の姉妹編であり、上巻の内容をよりよく理解するために編まれた手引書である。上巻の編者ルードウィク・ラーハの「ケルンデルバッハ家の一○○年」とナチス強制収容所から生還したローザ・ウィンターの体験記で言及され、説明が必要だと思われる用語や概念を解説した。日本語訳されていないさまざまな重要一次史料も翻訳し、なるべく史料に語らせる方法を試みた。また、上巻にその直接的言及がないものの、現時点で問題化しているさまざまな関連事項についても紹介・解説をおこなう。本書はとくに「第三帝国」期に重点が置かれており、戦後補償問題などについては拙論「オーストリアにおけるロマ民族の法的地位」を参考していただきたい。
上巻の原題『私たちはこの世に存在すべきではなかった』は、ルードウィク・ラーハがローザ・ウィンターから聞き取った発言に由来する。同書発行の意義についてローザの娘と孫と訳者とが語り合ったとき、娘のギッタは「どうしても私たちの人権を取り返さねばならない」と力強く訴え、次世代のニコルは「憎しみや恨みを乗り越えて」を強調した。社会的少数者集団であるスィンティと多数派国民が共存する社会を実現しようと思えば、数百年にわたって双方が相手に対して抱きつづけた疑念や不信、憎悪や怨恨などの感情を乗り越えるほかはないだろう。その場合、絶えず加害者の側にいつづけた多数派国民により多くの反省と努力が求められるのはいうまでもないことだろう。
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一五世紀初頭に中央ヨーロッパ諸国へ辿り着いたスィンティをはじめとするロマの諸グループの構成員に対して、多数派側は中世からごく最近まで一貫して「ツィゴイナー(Zigeuner)」や「ツィガーン(Tsigane)」などの蔑称を使いつづけた。すでに一五五三年、人文主義者のカスパー・ポイサー(Casper Peucer, 1525-1602)は、ロマの他称「ツィゴイナー」や「ツィガーン」の語源が、中世ギリシャ語で「不可触民」を意味した「アツィガノイ(Athiganoi)」であることを究明した。ところが、一六世紀末期ころから「ツィー・ガウナー(Zieh Gauner)」、つまり「移動詐欺師」が「ツィゴイナー」の語源だとドイツ語圏で一般に信じられてきた。「ツィゴイナー」を奇怪な犯罪者集団と思い込んだ多数派は、中世から現代にいたるまでその少数者集団を迫害しつづけ、その殲滅までを試みた。同じような危害を「ツィゴイナー」は多数派に加えていない。いずれにせよ、多数派が考え出した「ツィゴイナー」という呼称は、「差別的蔑称のニュアンスが強い」のである。
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オーストリアでのロマの初見は一三八九年とされる。ハンガリーと国境を接するオーストリア東部のブルゲンラント州(当時は西ハンガリー)に、「ゲオルギウス・チガーン」(Georgius Chigan)という家畜小屋清掃が業務の下男が明記された史料がある。「チガーン」という名字は、その人物の出自がロマであったことを示唆するものと推定される。
ロマ集団のうち、スィンティに関する詳細な歴史的研究はオーストリアにおいて蓄積がなく、「オーストリア・スィンティの大多数は第一次世界大戦前にドイツから移住した」と、曖昧であった。しかし、すでに一七世紀中期からスィンティがオーストリアに居住し、郷里権すら有していたことが、上巻『私たちはこの世に存在すべきではなかった』の発行で明らかにされた。その意味において同書は歴史書としての価値も大きい。
ローザのオーストリア国籍を行政に再確認させるため、娘のギッタはケルンデルバッハ家のルーツを探った。そして判明した史実を体験記に書き記している。
「オーストリアにおける母のルーツはかなり古くまで遡ることができます。父方のスィンティ家族はすでに一七世紀半ばからブラウナウ郡のホーホブルク・アッハで郷里権を得ていました。」(上巻・二二四ページ)
ホーホブルク聖堂区が一九三八年三月七日付でホーホブルク・アッハ村役場へ提出した「洗礼名簿」によって、ケルンデルバッハ家の子どもたちが一七六五年からホーホブルク教会で洗礼を受けていたことが証明された(同史料写真は上巻・二五ページ)。無抵抗のままオーストリアが「第三帝国」に併合される五日ほど前に提出された史料である。
ローザの父方家族のみならず、「母方の祖父ゲオルク・ウィンターは一八七三年にインスブルックで誕生しました」(上巻・二二四ページ)ともギッタは書いているが、口頭で、以下のより詳しい説明を聞いた。
「オーストリア国側は母の祖父ゲオルク・ウィンターが南部ドイツ、バイエルン州のワイルハイムで生まれたと主張しました。ところが、ワイルハイム郡役所へ問い合わせたところ、母の祖父が結婚したのはワイルハイムでしたが、生まれたのはオーストリアのインスブルックでそこの郷里権すら持っていたことが判明しました。その事実が母のオーストリア国籍復帰の決定的証拠になりました。ゲオルク・ウィンターのお蔭でオーストリア国籍を再発行してもらったようなものです。」(ゲオルク・ウィンターの写真は上巻・二二四ページ)
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オーストリアの行政当局がこだわった「郷里権」について説明しよう。出生や婚姻などによって特定の地方自治体構成員になると、その自治体の郷里権が付与され、自治体は郷里権を有する人物の救貧義務なども負った。ハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフ一世(Franz Joseph I, 1830-1916)の在位中、一八四九年制定の暫定的な地方自治体法により郷里権ははじめて導入され、帝国法として一八六三年に制度化された。郷里権のある構成員を地方自治体は登録簿に記載し、郷里証明書を発行した。もっとも、二年間の不在で郷里権は消滅した。つまり、ナチス時代における二年以上の収容所拘禁は郷里権の喪失につながった。そして、ナチス体制崩壊で一九四五年四月二七日に再独立を遂げたオーストリア政府は、強制収容所から生まれ故郷へ生還したスィンティやロマの国籍回復を執拗に拒みつづけた。
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現在のオーストリア・スィンティの正確な人口は不明であり、スィンティ組織のケタニ協会でさえその実数を正確に把握していないが、一○○○人から二○○○人のあいだだろうという。数十戸のスィンティ家族が暮らす集住地区がウィーン市を流れるドナウ川の川向こう、市北東部に位置する第二二区にあるが、大多数のスィンティはウィーン市内、オーバー・エスターライヒ州の州都リンツ市、サルツブルク州の州都サルツブルク市やオーストリア南部ケルンテン州のフィラッハ市などの都市に散在する。
オーストリアでその人口がさほど多くなく、多く見積もっても二○○○人程度のスィンティの組織、ケタニ協会の正式名は「スィンティとロマのためのケタニ協会(Verein Ketani fur Sinti und Roma)→ http://www.sinti-roma.at」であり、一九九八年四月にリンツ市で創立された。スィンティ独自の言語、ロマネス語(Romanes)でケタニは「共に」という意味である。現在、ケタニ協会の代表はスィンティとブルゲンラント・ロマの混血であるリナルド・ホーヴァート(Rinaldo Horvath)が務めているが、実質的な代表は書記長でローザ・ウィンターの娘のギッタである。ケタニ協会の日々の事務作業をこなしているのもギッタとその娘、つまりローザの孫のニコルである。
ちなみに、ケタニ協会はオーストリアではじめて結成されたスィンティ組織ではない。戦前から一○○名を超えるスィンティが暮らしたケルンテン州フィラッハ市で一九九三年四月に結成された「オーストリア・スィンティ連盟(Verband der osterreichischen Sinti)」が最初のスィンティ組織だった。ところが、その創立者で代表のフーゴ・タウブマン(Hugo Taubmann, 1935-1997)が組織結成から二年半ほどして体調をくずし、大病を患ったため、オーストリア・スィンティ連盟は一九九六年一月に解散を余儀なくされた。その後継組織として二年後に結成されたのがケタニ協会である。
オーストリアのロマ全人口も、やはり不詳というほかはない。最低で二万人、最高は二万五○○○人という推定もあれば、外国人労働者や難民として東ヨーロッパ諸国から流入したロマも含めれば約四万人との推定もある。オーストリア国憲法は「オーストリア連邦の公用語はドイツ語である」と明記しているが、オーストリア政府は「民族集団法(Volksgruppengesetz)」(一九七六年七月七日制定)によって「オーストリア国民であって、ドイツ語をその母語としない独自の民族性を固持する集団」の存在も公認している。法的に六つの「民族集団」=「少数民族」(スロヴェニア、クロアティア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ロマ)が認められている。ちなみに、ロマは一九九三年一二月二三日に「民族集団」として公認された。いくつかの少数民族が公認されているので、オーストリアの国勢調査は「家庭の日常語(Umgangssprache)」という項目も含んでいる。その記入は任意である。たとえば、一九九一年の国勢調査でロマニ語を「家庭の日常語」とした者は全国でわずか一四五人だったが、その一○年後の国勢調査では六二七三人を数えた。外国から多くのロマが流入してきたわけではない。奪われていたロマとしてのアイデンティティを奪回したロマが増えたのである。「家庭の日常語」をロマニ語とした六二七三人のうち四三四八人、七○パーセントほどがオーストリア国籍者である。もっとも、その公式統計値と最大推定値の差は六倍以上もあり、国勢調査結果が実態を反映しているとはとても思われない。
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論争があるロマの起源についての筆者の理解もあらかじめ述べておこう。スィンティをも含むロマは世界各国に散在する、独自の文化を保持するインド発祥の被差別者集団である。社会から除け者にされた雑多な下層民の集合体が「ジプシー」であるとの説を唱える論者が一六世紀のころから現在にいたるまでおり、インド起源説に疑問を呈する少数の研究者がイギリス、オランダ、フランスや日本などにいる。だが、ロマのインド起源はすでに一八世紀後半、ロマが使う言語、ロマニ語の比較研究をおこなった数名の研究者によって実証されている。自らがロマ出身の言語学者であるテキサス大学教授のイアン・ハンコック(Ian Hancock)は、早い段階でロマのインド起源を突き止めた三人の研究者の名を、その研究成果の発表年の順に列挙する。それはリュディガー(一七八二年)、グレルマン(一七八三年)とマースデン(一七八五年)である。ウィリアム・マースデン(William Marsden, 1754-1836)は、「一般にジプシーと呼ばれる人々の言語にかかわる観察」という小論を一七八五年に『考古学』誌に発表したイギリスの言語学者である。
それら三人の研究者のうち、『ジプシー』との題名を冠した日本語図書に登場するのは、グレルマン(Heinrich Moritz Gottlieb Grellmann, 1753-1804)のみである。グレルマンは『ディ・ツィゴイナー――ヨーロッパにおけるこの民族の生活様式、心身状態、風俗習慣と運命、ならびにその起源についての歴史的試論』を一七八三年に著し、初版発行の四年後に増補第二版が、また英語版、フランス語版とオランダ語版も出版され、グレルマン著は広く注目されつづけられた。だが、グレルマンの業績は過大評価を受けている。
一七七一年の段階でインド語と「ツィゴイナー語」の類似性に注目したゲッティンゲン大学教授のビュットナー(Christian Wilhelm Buttner, 1716-1801)が住んだ同じ家にグレルマンも下宿した。「ビュットナーが収集した言語学的資料を基礎に、グレルマンはインド起源説を確立することができた」といわれる所以である。さらに「グレルマンは『ウィーナ・アンツァイゲン』紙の記事から多くを借りている」ともいわれる。ハプスブルク家支配下の諸地域に関連する記事を掲載したのが『ウィーナ・アンツァイゲン』紙だが、一七七五年から翌年にかけてハンガリー人牧師のサムエル・アウグスティニ・アブ・ホルティス(Samuel Augustini ab Hortis, 1729-1792)が「ハンガリーのツィゴイナー」という連載記事を同紙に発表した。その記事からグレルマンは孫引きをしたとされる。つまり、グレルマンによる「ツィゴイナー研究」の独自性が疑問視されているのだが、それがグレルマン著の最大の難点であるとは考えない。同書の問題点は、グレルマン自身が強烈な差別意識の持ち主であり、その差別的記述が後世の「ツィゴイナー観」に多大なる影響をおよぼしつづけている点にある。実証もないままグレルマンは「ツィゴイナー」をインド最下層のカースト(シュードラ、??dra)、つまり不可蝕賤民の出自と決めつけ、「怠け者」「泥棒」「嘘つき」「ペテン師」「占い師」「スパイ」「子ども誘拐犯」「売春婦」「近親相姦集団」「人食い人種」など、ありとあらゆる否定的・犯罪的な特質をその属性とし、その音楽的才能以外はひとつの長所も持ち合わせていないとまで断言した。
ところが、グレルマンよりも一年前に「ツィゴイナー」のインド起源を裏づけた言語学者、リュディガー(Johann Christian Christoph Rudiger, 1751-1822)の名は日本でほとんど知られていない。「ツィゴイナーの言語とそのインド起源について」という五○ページほどの論文を一七八二年に公表したリュディガーは、「ツィゴイナーの起源は、インド東部に求めるほかない。(…)ツィゴイナーは太古からペルシャとインドとの国境地帯に居住した民族に由来する」と結論づけた。「ペルシャとインドとの国境地帯」と「インド東部」とは矛盾する。今日では「インド東部」でなく、むしろインド北西部のパンジャブ地方がロマの原郷とされているが、リュディガーの研究で評価されるべきは、彼の開明性である。
一七八七年からゲッティンゲン大学助教授になったグレルマンと、一七九一年からハレ大学教授になったリュディガーは同時代を生きた人物だが、この二人の思想的相違はとてつもなく大きい。「啓蒙主義者」といわれるグレルマンが実は「ツィゴイナー蔑視」の封建的思潮から自由でなかったことは、彼自身の差別的記述によって証明されている。だが、リュディガーは真の啓蒙主義者だった。「ツィゴイナーが社会で孤立している原因は多数派住民の側にある。(…)ツィゴイナーを軽蔑する根拠はまったく存在しない」と指摘したリュディガーは、「ほかの民族同様、ツィゴイナーにも生存権がある」と唱えた。未だにそのことに気づかない人々が決して少なくない現状をみると、リュディガーが当時の社会意識をいかに超越していたかが窺われるだろう。
グレルマン著にビュットナーとリュディガーの名だけは登場するものの、その二人の業績からの直接的引用はなく、「ツィゴイナー語」と「インド語」=ヒンディ語の言語的同系性をはじめて発見したのは自分であると主張しており、グレルマンは誠実性にも問題を抱えていた。リュディガーの半世紀後に同じハレ大学の教授になったポット(August Friedrich Pott, 1802-1887)は、一八四四年と翌年に『ヨーロッパとアジアのツィゴイナー』全二巻を発表し、「グレルマンが到達した結論は、リュディガーが情報源であった」ことを明らかにした。また、「ツィゴイナーのインド起源にはじめて言及したのは、それを一七七七年に比較言語学の見地から示唆したリュディガー教授である。(…)グレルマンはリュディガーの研究成果を採用し、それを発展させた」と、司書のアデルング(Adelung Johann Christoph, 1732-1806)も一九世紀初頭に記している。差別的記述が目立つグレルマンばかりが日本で注目され、ロマのインド起源を最初に証明した啓蒙主義者のリュディガーが黙殺されていることを残念に思う。
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ロマが移動を開始した原因についてもさまざまな仮説はあるものの、未だに確説はない。約一○○○年前にインド北西部のパンジャブ地方の原郷を異なる時期に離れ、異なる経路で西方に向けて移動を開始したロマは、断じて均一の少数者集団ではない。独自の民族国家を持った経験もないロマは、数え切れないほど多数のグループに細分化され、それらのグループにそれぞれの典型的な生業があり、独自の宗教を持たないロマはその生活地域の多数派住民が信仰するさまざまな宗教の信者であり、ロマの各グループはそれぞれのロマニ語方言を使う。ロマ独自の言語がロマニ語(Romani ?hib)だが、そのロマニ語はヴラハ(vlach)系方言と非ヴラハ系方言に大別される。ペルシャとコーカス地方とアナトリアを経て、ヨーロッパ大陸東部に辿り着いたロマはそこで複数の集団に分裂し、各地に離散した。小アジアからワラキア国とモルダヴィア国(両国ともに現ルーマニア共和国)へ向かったロマの一群は、一四世紀から一九世紀までのほぼ五○○年間、自由を奪われた奴隷や農奴として所有の対象にされ、同地での停留を余儀なくされた。家内奴隷にされたロマたちは、ロマニ語の使用さえも禁止された。一八五○年代から六○年代にかけて奴隷・農奴身分から解放された推定六○万人のルーマニア・ロマは、西ヨーロッパ諸国・アメリカ大陸・オーストラリアなど世界各地へ散らばった。それらロマの末裔が使うロマニ語がヴラハ系方言であり、その方言はルーマニア語の影響が濃い。ロマのほかの一群は小アジアからバルカン半島南部を経て中央ヨーロッパへ向かった。それらロマの末裔が使うロマニ語にルーマニア語の影響はみられず、非ヴラハ系方言という。その非ヴラハ系方言は古典インド語(サンスクリット語)の影響をより強く残している。ロマネス語と呼ばれるスィンティの使うロマニ語方言は、非ヴラハ系方言に属する。
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全世界の国々において人権問題は解決が期待される重要な課題として横たわっているが、二〇〇八年は国際人権宣言が国連総会で採決された六○周年にあたった。すべての人々とすべての国々が達成すべき人類共通の基準として、人間の自由平等と無差別の原則を定めたのが国際人権宣言だが、その第二条は、すべての人間が人種・皮膚の色・性別・言語・宗教・政治上その他の意見・民族的または社会的出身・門地・財産やこれに類する理由によるいかなる差別を受けずに人権を享有できると定めている。ところが、この宣言の批准国においても、社会的現実はそれからほど遠い状態にあるといわざるを得ない。残念なことに無差別で自由平等な「理想郷」など、世界中のどこを探しても見当たらない。内外人平等の原則を現実的に達成した国民国家などは存在せず、すべての国々において人権問題は未解決な重要な課題でありつづけいる。
欧州連合(EU)最大の被差別集団が一○○○万人以上を数えるロマだが、それらロマが暮らすEU圏ではロマ差別が現在進行形で続行している。たとえば、イタリアでは警察がロマの集住地区に放火したり、国際人権宣言が発布された六○周年の二○○八年からは子どもをも含むロマの指紋採集がなされている。もちろん、EU諸国だけではなく、それ以外の各国においてもロマ差別は深刻である。そのようなロマ差別に対処するため、ヨーロッパ各国のロマ組織の代表者四○○名ほども加え、EU各国でのロマの苦境やロマの社会への統合についての論議がなされた第一回目の「ヨーロッパ・ロマ・サミット」が、EU本部のあるブリュッセルで二○○八年九月に開催された。
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現在、日本国はロマやスィンティが集団として暮らしていない数少ない国のひとつである。ところが、日本へも「ジプシー」が渡来したと報じた明治期の新聞記事がある。一九○一年に日本へはじめてきたであろう「ジプシー」の一団は、「西洋穢多」という名で新聞に登場した。その三○年前、明治政府の最高官庁であった太政官が「穢多非人等之称被廃候條」と布告したのにもかかわらず、ロマの一団は「西洋穢多」と称せられたのである。いずれにせよ、このロマの一団は、最終的に国外追放になったようである。「ジプシーのスリに注意!」などと書かれたヨーロッパ向け観光案内書もそう遠くない過去に日本で出回っており、未だにそのような「観光案内」をする日本人ガイドがいるとも聞く。
その日本において、出会ったことすらない未知の「ジプシー」に対する差別感=恐怖感を抱いている人々が少なからずいることを、筆者は一度ならず体験した。スィンティをも含むロマの歴史、その文化や生活形態をいくらかでも知り、そのことが自らの非合理的で時代遅れの偏見や差別感の克服に寄与するのであれば、著者としてそれ以上の喜びはない。
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