読者の皆さん、皆さんがこれからお読みになるのは、私がこれまで何度となく友人たちに話してきた事柄です。私は自分の話してきたことをとにかく簡潔に叙述し、読んでわかりやすいものにしました。そして、これらの話を私の口から聞いた人々の反応がどのようなものであったにせよ、事実を歪めたり、誇張したりすることは避けるように努めました。
私たちの世代は、嘘をついてはいけない、さらには、作り話をするのもいけない、と教えられてきました。たぶん、だからこそ私は脚本家ではなく監督になったのであり、自分にゆだねられた脚本をできるだけ真実に近づけるよう、生涯を通じて努力してきたのです。この態度は、映画を撮る時も演劇を演出する時も変わりません。
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私の想像力を培ってきた絵にどんなものがあったかと考えてみると、子どもの頃、私のベッドの上にかけてあった絵――そう、幼少期からいつも私のそばにあったあの守護天使の絵をまず挙げねばならない。続いて、教科書の挿絵にあったヴォイチェフ・コサク[ポーランドの画家(一八五六―一九四二年)]の「リヴィウの子鷲」[リヴィウは現ウクライナの都市。戦間期まではポーランドに属した。「子鷲」は一九一八―二〇年のポーランド・ウクライナ戦争、ポーランド・ソ連戦争で、町を守った若い兵士たちの呼び名]。クラクフの古書店でその絵の複製を見つけた時、幼少期から半世紀もの歳月が流れていたにもかかわらず、その挿絵を正確に記憶していた。そしてもう一枚は、アルトゥル・グロトゲル[ポーランドの画家(一八三七―六七年)]の「原生林」。プシェムィスウにある祖父母の家で、石油ランプの光のもとで眺めたアントニ・ポトツキ[ポーランドの小説家、文芸評論家(一八六七―一九三九年)]の本[『グロトゲル』(一九〇七年)] の挿絵に、私はぞっと恐怖を覚えたものだ。しかし、これらの絵を挙げただけではまだ足りない。馬上のタデウシュ・コシチュシュコ[ポーランドの軍人(一七四六―一八一七年)]とユゼフ・ピウスツキ[ポーランドの政治家・軍人(一八六七―一九三五年)]の肖像画を忘れてはならないだろう。
私はごくふつうの少年だった。父に乗馬を教わり、守護天使にたえず見守られていた。一九四二年の春、国内軍[第二次大戦中、ロンドンにある司令部の指示のもとに、ドイツ占領下で地下活動を行なったポーランドの軍隊]に応募し、ありとあらゆる聖なるものの名において指揮官に忠誠を誓った。それら聖なるものはあまりに神聖だったので、わが家では誰もそれらの名前を声に出して口にすることはなかった。私の行動を知った母は、私の安否をひどく心配した。
大戦中に読んだ、ユゼフ・チャプスキ[ポーランドの画家、エッセイスト(一八九六―一九九三年)]の本『セザンヌと絵画的意識について』(三七年)は忘れられない。この本によって、何も見えていなかった私の目が美術に対して開かれ、当時住んでいたラドムで最先端の画家になった、とひとり合点した。しかしそのことによって、美術の専門家たちが芸術的価値を認めていない昔の絵画が、私の意識の中から消えてなくなることはなかった。逆に、そうした古い絵は今でもたえず私の中に立ち現われて、新しい意味を獲得し続けている。
私の育った環境はというと、わが家は名誉と義務を重んじる軍隊的伝統の家庭だった。父はいつも軍服のボタンを首まで留めていた。古典語を必修とする学校、ギリシアとローマの文化、カトリック教会と神の法――こういうものによって培われた愛国心と道徳観を抱いて、私は一九三九年の戦争に突入した。
そこで目にしたのは次のようなことだった。
敵に対しては不意を突くほうが効果的なのだから、宣戦布告など必要ない。すなわちIをつくほうが勝利につながる。敗者は誰も守ってくれない。弱者は滅びなければならない。政治的な敵対者を抹殺することはおろか、全民族の殲滅を計画することも可能である。軍隊の行進と宣伝ポスターという技術だけで勝利をおさめることもできるのだ……。
私は、ローマ法と地中海文化の価値が普遍性を失ったことを理解した。私はその事実を甘受しなくてはならなかったのだろうか。また、映画監督になった時、戦争時代のこうした体験を避けて通ることができただろうか。
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人生とは劇場で上演される退屈な戯曲のようなものだが、それでも幕は必ず降りる。終幕前に慌てて劇場を出ていく必要はない。私には強烈な体験がある。一九四六年、自由広場にあったクラクフ市保安局の地下室に任意連行された時のことだ。国内軍に属していたかどうか、誰と一緒だったか――と何時間にもわたって尋問を受けた。尋問は夜を徹して続き、空は白々と明け始めていた。若い取調官はやがて、半開きの引き出しにピストルを入れたまま、頭を机の上に乗せてぐっすりと眠りこんでしまった。取調室は五階にあり、窓の外には自由があって私を誘惑していた。私はじっと待っていたが、いったい何を待っているのかは自分でもわからなかった。あるいは事のなりゆきに興味があっただけかもしれないし、あるいはまさしくその時にこうひらめいたのかもしれない――見た目にごまかされるな、この男は寝ているふりをしているだけではないか、この男はソ連内務人民委員部[秘密警察KGBの前身]の高等教育機関を修了しているにちがいない……。尋問の日々、保安局の建物の廊下では、私たちの尋問官たちを指導するソ連人顧問の声がたえまなく響いていた。
子どもの頃は病的に憶病だった。司祭の侍者になりたいと思っていたのに、度胸が足りなかった。ラテン語の典礼文は暗記していたけれども、いざ司祭の言葉に答える段になると暗記した文章が思い出せなくなるのではと心配したのだ。ラドム第二〇少年団の副団長になって少年団の隊列の前に立った時も、命令の言葉を口から絞り出すことができなかった。私が育ったのは兵舎だ。そこでは緊張した声で発せられる命令や、部下を叱りつける断固とした上官の声にいつも囲まれていた。それなのに、子どもの頃の私が臆病で、命令をするのが苦手だったというのは、おかしなことだ。しかし映画監督になって四五年間、私はずっと命令ばかりしてきた。どうやらこの世に習得できないことなど何もないらしい。
青年時代の私は、世界はより良いものに変えられるという希望をずっと抱いていた。二〇世紀の芸術である映画は、その目的に最も効果を発揮するはずだった。さまざまな国、さまざまな人種からなる各大陸の人々が映画を通して互いを知り、友人になり、同志になる――そう私たちは信じていた。しかし世界は重い病の床にある。あたかも子どもに次々と新しい玩具が与えられるように、世界に次々と映画が供給されても、映画によって世界が健康を取り戻すことはない。今でも夕方になると映画館では次々と新しい映画が上映されるが、映画によって世界がみずからの過ちを悟り、幸福に至る人類共通の道を見出すだろう、などという希望ははかなくも消えてしまった。
今日、万人のための映画などないが、かといって、選ばれた者のための映画は私には受け入れがたいし、そうした作品は完全な失敗作に終わるだろう。映画の古い伝統に育った私はいつも、他人に理解されることを求めて観客に語りかけてきた。「地獄とは他人のことだ」[伊吹武彦・訳。ジャン=ポール・サルトルの戯曲「出口なし」の登場人物の台詞]というサルトルの考え方は、私には文学的比喩にすぎないように思える。他者と私が合わされば、そこに力が生まれるのだ。映画芸術の神髄は、つまるところ創作者の秘密の部分に存在しており、芸術家たる監督に対して観客は余分な付け足しの役割しか持っていない、という意見があるが、私は同意できない。
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映画は蝶の寿命ほどの生を生きるにすぎず、それ以上長い生命を保つことは稀だ。映画の成功や失敗を理解するには、映画がこの世に生を受け、スクリーン上に存在していた時の状況を知らねばならない。映画の寿命は、まず観客の反応、そして評論家による評価次第である。写真集『ワイダ――映画』(一九九六年)制作のために、国内外で私について書かれた文章の抜粋をとりまとめながら考えたことがある。次々と作った映画が望ましい評価を得られなくとも、さらにその次の作品を作っていった。その力の源泉はどこからきたのか。もう一つ。なるほど数多くの賛辞を浴びたが、それによってなぜ正気を失うようなことがなかったのか。答えはただ一つ。批評の大半をまったく読んだことがなかったからだ。《地下水道》を製作中に十二指腸潰瘍にかかり、激しい興奮は極力減らすよう医師から言われた。私にとって選択肢は、映画製作をやめるか映画批評を気にしないようにするか、二つに一つだった。私が二つ目を選んだのは当然だろう。
最近、テレビ映画《貸方と借方》の中で、自分の人生の損益計算書を作ってみた。「損失」に計上したのは、身のまわりの自然をゆっくり眺める時間がなかったことだ(いや一度だけ、《白樺の林》撮影中にはあった)。花や木々の葉だけでなく、残念ながら人間のこともあまり注意深く観察してこなかった。私は友情をあまりにも表面的にとらえてきた。今となっては計測不能なほど大きな損失に違いない。
人間には、ある時には、成功に向かって推し進めている行動からすっと身を引くべき場合があるのではないか。真の成功はどこか他のところに潜んでいるのではないか。成功するか否かを決するのは自分たちのことを注視している人々ではなく、自分自身ではないか。今では、自分の行動が正しかったのかどうか、然るべき場所にいて、然るべき人の役に立ったのかどうか、はっきりとは答えられない。動き回り、行動することが生きがいだったから、たしかに幸せであったが、「いや、ちょっと待て」と自分に言い聞かせるべき場合もあったのではないか。私にはそれができなかったが、それでよかったのだろうか。私がこの不安から解放されることはけっしてないだろう。
では「利益」の項目はどうだろう。自分でも満足している数本の映画を、そこに書き入れたい(必ずしも特に好評だったからではなく、自分自身が納得している、という意味で――)。それは、作らなくてはならなかったまさにその時に産声をあげた映画だ。自由の到来[ポーランドに非共産党政権が誕生した一九八九年以後を指す]を待ってから《鉄の男》[一九八一年公開]製作に取りかかることもできたはずだ。傑作を作ろうなどと考えたことはない。そのこともまた貸方の欄に書けるだろう。映画を次から次へと撮っていく――これこそ私にとって、自分の作品が評価される唯一の道だった。
一九八一年十二月十三日の戒厳令施行は衝撃的事件だった。これからどうなるのか、まったく予想できなかった。私たちはその時、共産主義体制を、ポーランド人にもっと適合するように、進化論的に改良するのは不可能であることを理解したのだった。だから、より多くの自由と真実を求めて行動し、映画を撮り、本を書いたことに、はたして意味があったのか、という疑問が湧かないでもない。それでも、あの時代になされたことを消し去ることはできないと思う。書籍、スクリーン、舞台を通じて、ポーランド民族の心と魂に注ぎ込まれた「渇望」があったからこそ、私たちは自由を獲得することができたのだ。渇望は、然るべき時を秘かに待っていたのだ。
私は人生で多くの幸運に恵まれた。それなくしては私が生きた時代を生き抜くのは難しかっただろう。自分に野心がなかったわけではないが、一度たりとも先頭を切って駆け出したことはない。私は何よりも未来に興味を持っていた。だが、はやって前に進もうとする志願兵はすぐに戦死したり、戦意を失ったりするものだ……。私はこれまでの歳月でさまざまな過ちを犯し、また人民共和国時代[一九四七―一九八九年]にはその時々の困難や制約に屈服し、仕事を続けるうえでそれらを容認せざるを得ないということがあった。にもかかわらず、自分の人生が無駄だったとは考えていない。
私はどうしても、自分の手帳に長年書きつけてきたことをこの自伝に挿入しておきたいと考えた。手帳には身辺に起きた多くの事柄が記されている。私の映画が観客の関心と一致し、その都度、観客の胸のうちに眠っていた渇望と感情とを目覚めさせたとすれば、それは私自身が生きた生と私を取り囲んでいる世界の生が同じ一つのものだったからなのである。 |